絶望日記

絶望日記

マジメに適当なひとり言を綴ってます。


私がひきこもった時期は、

 

約4ヶ月だったので、

 

その定義からは外れますが、

 

ただバイトしてからも、

 

誰とも馴染めないという、

 

孤立をずっと感じていたので、

 

精神的にはきつかったし、

 

またいつひきこもるかも、

 

わからないような状態でした。

 

そう言えば私が、

 

ひきこもった96年頃は、

 

「ひきこもり」という言葉も、

 

聞いたことはなかったし、

 

「うつ病」という言葉も、

 

存在はしていたのでしょうが、

 

私は知らなかったですね。

 

確か私が心理を学んだ98年頃に、

 

「うつ病は風邪と同じ」とか、

 

言われるようになった気がします。

 

それまでは、この私の状態は、

 

一体何なのかと頭を悩ませ、

 

先を考えると真っ暗というか、

 

その得体の知れない不安が、

 

本当にすごく怖かったです。

 

変な話になりますが、

 

私が特に情報を得ることなく、

 

何も知らなかったからこそ、

 

頭でっかちになることなく、

 

すぐに行動できたのかな、

 

という気もしています。

 

どちらにしても24歳では、

 

「強くなる」というのを、

 

念頭に置きながら、

 

とにかく戦ってきました。

 

まぁ戦うというのは、

 

少し大袈裟かもしれませんが、

 

当時の私は現実から逃げず、

 

答えを見つけるためには、

 

誰かに助けを求めたり、

 

逆にユーモアとかで、

 

乗り切ったりするよりも、

 

ひたすら真面目に、

 

必死になって頑張ることで、

 

自分を保っていたのです。

 

あと現実生活の中で答えを出す、

 

いわゆる地に足をつけることも、

 

テーマとしてありました。

 

そのためには外に出て、

 

仕事をするということと、

 

その先に親元を離れ、

 

自立をするということに、

 

私は重きを置きました。

 

彼女が病死した翌年の、

 

30歳で上京して、

 

しばらくは姉にお世話になり、

 

心が落ち着いてきた頃に、

 

足裏マッサージの仕事をして、

 

1人暮らしを始めましたが、

 

結局40歳で定職に就き、

 

46歳で結婚したことで、

 

自立できたかなと思っています。

 

50歳でやっと子どもができ、

 

その成長していく姿を見て、

 

親としての責任とともに、

 

喜びを感じる一方で、

 

約1ヶ月前の出来事では、

 

かなり動揺してしまいました。

 

それは夕食時に子どもが、

 

いきなり白目をむいて、

 

痙攣を起こしたのです。

 

初めて見る光景に私は、

 

パニックになってしまい、

 

ただ呆然と見ていました。

 

すでに18時半を過ぎていたので、

 

近くの国立病院に電話を掛け、

 

時間外で対応してもらい、

 

どうも痙攣を起こしたのは、

 

急に高熱が出たためで、

 

それを落ち着かせるために、

 

解熱剤を入れてもらいました。

 

医師の診断も無事に終わり、

 

家に戻ると熱も下がり、

 

安心して寝床についたのですが、

 

夜中にまた痙攣を起こしたのです。

 

4時前くらいだったのですが、

 

すぐに病院に電話をして、

 

診察してもらったにも関わらず、

 

詳しいことがわからずに、

 

一応様子を見ることになりました。

 

で薬をもらうため移動したら、

 

3回目の痙攣が起こったんです。

 

また戻って医師に診てもらい、

 

どうも熱性けいれんではなく、

 

川崎病かもしれないということで、

 

そのまま入院となりました。

 

ぐったりしている子どもを見て、

 

これはただ事ではないな、

 

もう危険な状況かもしれない、

 

とかなり焦ってきて、

 

苦しくなったのを覚えています。

 

通常の熱性けいれんだと、

 

1回目に解熱剤を使えば、

 

熱が下がって落ち着くけれど、

 

私の子どもの場合は、

 

一日に、それも短時間で、

 

3回も出てしまったことで、

 

何か重い病気ではないかと、

 

かなり心配になったのです。

 

それ以降も熱は下がらず、

 

時には40度を超えることもあり、

 

もうダメなのだろうかと、

 

最悪なことを考えていましたが、

 

担当医師が子どもの右足に、

 

赤く腫れ上がった箇所を見て、

 

抗生剤を使うようにしてから、

 

無事に熱が下がっていき、

 

入院3日目には平熱になり、

 

徐々に食欲も出てくれば、

 

4日目には元気になりました。

 

結局約1週間で退院して、

 

子どもの笑顔を見た時は、

 

本当に嬉しかったですね。

 

今回のは川崎病ではなく、

 

単に右足首の切り傷から、

 

ばい菌が入ってしまい、

 

高熱が出たということで、

 

特に後遺症が残ることもなく、

 

今では家を走り回っています。

 

ところで最初に痙攣した時、

 

私は動揺してしまいましたが、

 

一方で妻の方はと言うと、

 

子どもの痙攣の時間を計り、

 

病院に電話した際には、

 

その痙攣の時間と、

 

子どもの様子を伝えていました。

 

ずっと私は助かって欲しいと、

 

ただ願うだけでしたが、

 

妻は病院でも落ち着いて、

 

医師とやり取りをしていて、

 

その冷静さには驚きましたね。

 

それに入院することが決まると、

 

妻が付き添うことになったので、

 

すぐに必要なものを準備して、

 

入院手続きのやり取りにも、

 

きちんと対応していたので、

 

母の力って凄いと感心しました。

 

私は「強くなる」と決めて、

 

実行してきたつもりでしたが、

 

しかし、いざとなると、

 

不安に押しつぶされそうになり、

 

その自分の脆さを知ったし、

 

女性の強さには敵わないと、

 

改めて実感した出来事でした。

 

まぁ強さとは優しさで、

 

どんな状況に置かれても、

 

相手に配慮できる人が、

 

本当に強いのだと知ったし、

 

白血病で亡くなった彼女も、

 

ギリギリの苦しい状態でさえ、

 

世話をする母親に対し、

 

「もう大丈夫だから休んで」

 

と声を掛けていた姿から、

 

本当に優しく強い人だなと、

 

感じたのを思い出しました。

 

些細なことでストレスを覚え、

 

すぐに感情を乱す私は、

 

まだまだ弱いのでしょうね。

 

ところで子どもの話に戻ると、

 

あれから高熱を出すこともなく、

 

いつも元気に保育園に通い、

 

家でもよく喋るし笑っています。

 

もちろん嬉しい反面、

 

子どもが夜中に起きるのは常で、

 

最近は寝る時間も遅くなり、

 

正直ずっと一緒にいると、

 

疲れ果てるようになりました。

 

子どもができたことで、

 

私の居場所というものが、

 

やっと見つかった一方で、

 

自分の時間がもてなくなり、

 

体も悲鳴を上げてきているので、

 

辛いなと感じることもあります。

 

体力的にはしんどいですが、

 

今は子どもの満面の笑顔と、

 

「お父さん」と呼ばれるのを、

 

楽しみの一つにしながら、

 

頑張っていこうと思います。

 

そして最後になりますが、

 

2011年からブログを始めて、

 

かれこれ13年が過ぎました。

 

自分の素直な思いを、

 

ただ吐き出したものが、

 

正直ここまで続くとは、

 

考えてもいませんでした。

 

いつも色々なことを感じて、

 

特に不満やストレスですが、

 

その発散場所としては、

 

ブログは好都合でしたね。

 

それに、ここで書くのは、

 

自分を見つめ直すための、

 

リハビリも兼ねていましたが、

 

子どもが生まれてからは、

 

向き合うのも減っています。

 

そして、それ以上に、

 

私がどういう人間であるのか、

 

それがやっと理解できたし、

 

受け入れることができたので、

 

ここで一度完結したいと思います。

 

最近は自分なりに、

 

まだ、ひきこもっている人や、

 

外に出て頑張っている人に向けて、

 

メッセージを伝えたつもりですが、

 

自己満足的な言葉に過ぎない、

 

そう感じられたかもしれません。

 

確かに私という人間は、

 

まだ悲観的なところがあるし、

 

些細なことで落ち込んだり、

 

人のせいにしたりするという、

 

精神的な弱さもあります。

 

それに人前で話すという行為、

 

いや普通に会話することでさえも、

 

まだ緊張することがあるし、

 

家族以外と笑い合うことはできず、

 

それは私の人間嫌いが、

 

影響しているのも自覚しています。

 

どうしても人を恨んだり、

 

憎んだり嫉妬したりすることが、

 

未だになくならないですね。

 

私の人間嫌いというのは、

 

強い自己愛があるせいですが、

 

そんな私でも結婚できたし、

 

子どもが生まれことで、

 

幸せを味わっているのですから、

 

きっとまだ途中の人でも、

 

同じように自分なりの幸せを、

 

掴むことができるのだと思います。

 

だから、どんな形であれ、

 

不安になってもグッと我慢をして、

 

地道に前向きに取り組んでいけば、

 

答えを手にするのではないでしょうか。

 

まぁ目新しいものではなく、

 

誰もが知っているような話でしたが、

 

これが最後の締めになります。

 

それでは私のつたない文章を、

 

今まで読んでいただき、

 

本当に有り難うございました(^^)/

私は東京にいた36歳の時に、

 

1泊2日のバスツアーに参加した。

 

男女30人以上のイベントで、

 

内容としてはプールで遊んだり、

 

宴会場や風呂場でも遊んだりと、

 

大学生のノリかと思えるような、

 

なかなかのハジけ具合いなので、

 

最初は抵抗があったのだが、

 

後半はそれなりに楽しめた。

 

で、出発してから、

 

バスの中で男性司会者が、

 

「今日は楽しんだものの勝ち。

 

だから思いっきり楽しみましょう」

 

みたいなことを言った時、

 

私の頭の中では、

 

「え!?楽しむって何を?」

 

という言葉が渦巻いていた。

 

もちろん自分の意思で、

 

このイベントに参加しており、

 

楽しむ以外にないのだろうが、

 

それまでは人生を楽しむよりも、

 

頑張って生きることの方に、

 

全力を注いできたから、

 

余計に頭を悩ませたのである。

 

24歳の時に心に決めたのは、

 

「強くなる」ことで、

 

それは落ち込みやすい自分の、

 

精神的に弱い部分を変えること、

 

逆境に心折れないこと、

 

自分や人に負けないことだった。

 

だから誰かと何かをする際は、

 

特に同性に限定されるが、

 

自分の弱さを見せないため、

 

弱音を吐かないようにしたり、

 

強気な態度で接したりと、

 

自分を作っていたところがある。

 

今では馬鹿だなと思えることも、

 

当時は「強くなる」とは、

 

そういう風に解釈しており、

 

相手に隙を見せないことで、

 

自分を保っていたのである。

 

もちろん私が本当に、

 

それができていたとは言い難く、

 

ヤバイことがあった時は、

 

ごにょごにょと誤魔化したり、

 

逃げたりもしたのも事実である。

 

とにかく周囲は敵だらけで、

 

だから人と戦うというのが、

 

当時の私の在り方だったので、

 

人と楽しむという言葉は、

 

すんなり頭には入ってこなかった。

 

ただ私がそれまでの間、

 

何も楽しめていないかと言うと、

 

必ずしもそういう訳ではなく、

 

1人で遊ぶことはできていた。

 

例えば足裏マッサージで働いた時、

 

店舗は銀座にあったので、

 

ブランド店や百貨店を、

 

ウインドウショッピングしたり、

 

街を散策して人を観察したりと、

 

銀座の空気を味わっていたが、

 

特にはまったのが食べ歩きである。

 

一流と言われる飲食店が、

 

銀座に集まっていたので、

 

一時期は仕事休憩の昼食には、

 

必ずどこかで食事していた。

 

ランチタイムだと割と安くなり、

 

一流店でも5000円くらいで、

 

食べることができたので、

 

一生に一度だったら、

 

惜しくはないと足を運んでいた。

 

しばらく銀座で食べていたが、

 

ある日大崎にあった「六厘舎」の、

 

つけ麺の美味しさに衝撃を受け、

 

そこからつけ麺にはまり、

 

丁度ブームがきていたので、

 

魚介系豚骨味は当然ながら、

 

味噌や蟹、鶏白湯なども食べたし、

 

2011年の大つけ麺にも行っている。

 

まぁ今では高血圧のため、

 

そこまで食べようとは思わないが、

 

当時の私は1軒のラーメン屋で、

 

つけ麺を食べた後に、

 

行列がなくなったことと、

 

なかなか行けないことが重なり、

 

店を出た10分後には、

 

特製ラーメンを食べたこともある。

 

それから、つけ麺以外にも、

 

和食、寿司、蕎麦屋、おでん屋、

 

ケーキ屋、フレンチ、イタリアン、

 

カフェ、パン屋、珈琲屋などと、

 

1人で食べ歩きを続け、

 

たぶん4年間で500店舗ほど、

 

回ったのではないだろうか。

 

確か世田谷のカフェでパンケーキ、

 

新店の珈琲屋と有名パン屋、

 

その後カレー屋では昼食をとり、

 

午後からパン屋とケーキ屋の後、

 

老舗純喫茶で休憩をしてから、

 

最後ラーメン屋で締めた時には、

 

さすがに気持ち悪くなった。

 

限度を知らないというか、

 

せっかく遠出するのだからと、

 

つい効率化を求めてしまう、

 

この私の独特な感性は、

 

人と馴染めないだろうなと、

 

自分でもつくづく感じる一方で、

 

「何のために生きているのか」

 

私にとってそれは、

 

「美味しいものを食べるため」

 

というくらいに食べ歩きが、

 

本当に楽しかったのである。

 

きっと、ひきこもりの人は、

 

私と同じように人が怖い、

 

社会が怖いというものだろう。

 

でも、いざ外に出てみると、

 

意外と楽しいことがあることに、

 

気づくのではないだろうか。

 

私みたいに食べ歩きをしたり、

 

お笑いやライブに参加したり、

 

1人で楽しむこともできるはず。

 

誰かと会話をしても、

 

嫌な気分になることがあるし、

 

仕事はもちろんのこと、

 

遊びでさえも疲れることもある。

 

そういう時には、

 

1人遊びでリフレッシュをして、

 

また仕事などを頑張るというのを、

 

地道に繰り返していけば、

 

現実生活を送れるようになる。

 

それと私は絶望を抱きながらも、

 

いつかこれを乗り越えられる、

 

そんな楽観的な部分も、

 

もっていたのかもしれない。

 

それは母が「ケセラセラ」という、

 

その言葉をモットーとしたように、

 

持ち前の明るさというか、

 

その楽観的な言動から、

 

影響を受けたのではないだろうか。

 

これらのことからわかるように、

 

私はずっとストイックに、

 

取り組んできたわけではない。

 

私がひきこもった24歳や、

 

彼女が死んだ29、30歳頃は、

 

いつも絶望感を抱き、

 

死を身近に感じていたから、

 

そこから抜け出すために、

 

自分を追い込んでいたが、

 

特にその時期を過ぎてからは、

 

ただボ~として休んだり、

 

現実逃避をしたりして、

 

自分の精神を保ってきた。

 

そういう息抜きがないと、

 

長くは続けていけない気がする。

 

ひきこもっている間は、

 

確かに人に傷つけられず、

 

好きなことができることで、

 

その分楽に感じるだろうが、

 

きっと何も生まれることはない。

 

やはり外に出ることの方が、

 

しんどいことも増えるが、

 

楽しいことも増えるということを、

 

知るといいのかもしれない。

 

あと東京にいる頃は、

 

よくお笑いイベントに行っており、

 

自然と笑えるようになっていたが、

 

なんとか外に出るようになった、

 

24,5歳の時期は、

 

特に人と会話するのが怖くて、

 

ただ笑うことだけでも、

 

力がいるものだと感じていた。

 

だから例えば散髪に行く時には、

 

いつも無表情で座っていたから、

 

これは印象が良くないだろうと感じ、

 

今日は笑うぞと決めて臨み、

 

できるだけ笑顔を出していた。

 

ただ家に帰った後はしんどくて、

 

なぜここまでして生きるのか、

 

この先良いことはあるのだろうか、

 

と度々自問自答してこともある。

 

今でも私は妻と子ども以外は、

 

誰とも純粋に笑うことができず、

 

人生を楽しむということが、

 

できているとは言い難い。

 

おそらくこの先も、

 

人間嫌いである私だから、

 

大して変わらないような気がする。

 

ただ心配症で後向きで悲観的で、

 

そして絶望感を整理できず、

 

誰かの些細な言動で、

 

いちいち傷ついていた私が、

 

食べ歩きにはまったり、

 

なにかのイベントに参加したり、

 

それなりに1人では、

 

楽しめるようになったのだから、

 

きっと他の人もできることと思う。

 

最初の一歩を踏み出すことは、

 

いや半歩でさえも、

 

本当に難しいものと感じるが、

 

それが大きな結果をもたらしてくれる。

私もひきこもった経験がある以上、

 

「8050問題」に触れたいと思う。

 

私も50代で母も80代であり、

 

まさにこれは他人事ではない。

 

もし私が外に出ると決断せず、

 

あのままひきこもっていたら、

 

きっと深刻化して、

 

事件化してもおかしくないと、

 

思えるくらいに荒んでいた。

 

実際にひきこもり関係の事件が、

 

様々な場所で起こっており、

 

それを見る度に私は、

 

一歩間違えたら起こしていたかも、

 

と背中に寒さを覚えるのである。

 

では私が結婚をして、

 

現在普通に暮らしているように、

 

明暗を分けたのは一体何か?

 

それは外に出たことに変わりないが、

 

おそらく私の考え方によるだろう。

 

確かにひきこもった当時の私は、

 

この絶望感と生きる苦しみは、

 

全部親のせいだと思っていた。

 

父の無関心と母の過保護のせいで、

 

私は社会に適応できないのだと、

 

責任転嫁をしていたのである。

 

しかし時間が経つにつれて、

 

徐々にこれではダメだと感じ、

 

さらにノートに「死」の文字を、

 

たくさん書き連ねたのを、

 

我に返って見た時に、

 

このままだと死ぬかもしれない、

 

と怖くなったのも重なり、

 

外に出る決心をしたのだった。

 

ただ覚悟を決めたからと言って、

 

すぐに行動に移せるわけでなく、

 

親と会話できるまでにも、

 

かなり時間を要したし、

 

家から出るようになり、

 

コンビニに行ったとしても、

 

店員に支払う際には怖くて、

 

手が震えたのも覚えている。

 

そう言えばひきこもる直前、

 

親友と居酒屋に行き、

 

晩酌してもらう時に、

 

コップを持った手が震えて、

 

理由がわからず怖くなったが、

 

疲れたのかなぁ、とか言って、

 

誤魔化したこともあった。

 

他にも飼っていた猫と、

 

目が合っただけでも怖くなり、

 

放り投げたことがあって、

 

なぜ急に恐怖を覚えたのか、

 

当時はその理由がわからず、

 

それが怖かったこともある。

 

外に出られるようになっても、

 

思うように動けない自分を

 

否定したり責めたりもして、

 

再び部屋に閉じこもり、

 

惨めさを抱きながら、

 

悶々と過ごす日々も数知れず。

 

そういう一進一退を繰り返し、

 

少しずつ買い物をすることが、

 

慣れていくと怖くなくなり、

 

バイトもできるようになった。

 

自分の人生なのだから、

 

自分で責任をもって決断し、

 

行動を起こしたのは良かったし、

 

それにできないことではなく、

 

今できることに焦点を当て、

 

頑張ったのは正解だったと思う。

 

ただ無理をしていたせいか、

 

精神的にはまだ不安定で、

 

誰かの些細な言葉に、

 

傷つくこともよくあったし、

 

殻に閉じこもることもあった。

 

その一方で誰かが手を差し伸べて、

 

救われることもあったのも確かで、

 

結局は人に傷つけられるけれど、

 

助けてくれるのも人なのである。

 

だから人間関係を放棄せず、

 

誰かと繋がろうとするのは、

 

とても大事だと言い切れる。

 

最近ひきこもりの本を読んで、

 

当事者の言葉が書かれてあったが、

 

どれも親を責めるものや、

 

支援の不足を責めるものだった。

 

確かに虐待など親のせいで、

 

ひきこもる人もいるだろうし、

 

支援の改善を求めることは、

 

今後も必要になるのだろうが、

 

私としては彼らの言葉が、

 

どうも言い訳に過ぎず、

 

ただ人のせいにしているだけ、

 

そんな風に感じたのである。

 

私の経験から言うと、

 

ひきこもるのは自分の意思だし、

 

親や支援者のせいではない。

 

誰かのせいにしたいという、

 

その気持ちはよくわかるが、

 

自分が願うように親や支援者が、

 

理解してくれなくても、

 

それがひきこもることには、

 

結びつかないのが当然なのだ。

 

私も外に出るようになってから、

 

母の過保護をどうにかしたいと、

 

第三者に入ってもらい、

 

「息子さんは今飛び立とうと、

 

 一生懸命努力していますが、

 

 それをお母さんが、

 

 止めようとしているんですよ」

 

とかアドバイスしてもらったが、

 

「あいつは何もわかっていない」

 

と母は相手を罵るばかりで、

 

何も変わることはなかった。

 

そこでまた母と衝突したが、

 

結局は変えることは無理だし、

 

時間がもったいないと考えて、

 

私は自分が変わることを選んだ。

 

要は理解できない母を、

 

ダメだと烙印を押すのではなく、

 

過保護以外は特に問題なく、

 

母は母なりの愛情であって、

 

私を意図的に困らせようと、

 

しているわけではない。

 

だから母の態度のことは、

 

それはそれとして置いておき、

 

また心配させている原因は、

 

私だとはっきりわかっているので、

 

自分の進むべき道に向かい、

 

頑張ることにしたのである。

 

今でも母の言動が、

 

癪に障ることもあるが、

 

そういうものだと諦めたり、

 

距離を取ったりすることも、

 

必要になるのではないだろうか。

 

そして例えば当事者の集まりや、

 

支援者などと会話をしても、

 

理解してくれなかったと嘆いたり、

 

上手くできなかったと落ち込み、

 

再びひきこもるのもいいが、

 

今回は外に出ることができたとか、

 

一応会話することができたとか、

 

そういう肯定する視点の方が、

 

大事になるのだと知った方がいいし、

 

ひきこもる理由探しは止めた方がいい。

 

また、ひきこもりへの法整備や、

 

自治体の支援の充実とか、

 

そういう外部の問題点を、

 

指摘する発言に対して言及すると、

 

私はそこじゃない気がする。

 

確かに現実生活では、

 

あーじゃないこうじゃない、

 

と不満を覚えることがあるし、

 

彼らの意見は正論なのだが、

 

それは普通に生活していれば、

 

誰もが抱くものであり、

 

ひきこもる人だけが特別ではない。

 

実際私も社交不安障害と診断され、

 

今まで人と対面することが、

 

怖かったのはこれが理由なのか、

 

と安心する一方で、

 

この私の障害を認定してもらい、

 

手帳を発行してもらえるように、

 

市役所に相談に行ったけれど、

 

「前例がない」ということで、

 

あっさりと終了した。

 

未だに私は会話をすると、

 

頭痛がして眉間も重くなるし、

 

仕事ができない状態になるが、

 

これを詳細に説明することも、

 

相手に理解してもらうことも、

 

難しいと自覚していたので、

 

当時は仕方がないと諦めた。

 

もちろん自己主張や訴えも、

 

必要な時はあるだろうし、

 

すべてがダメとは言わないが、

 

この苦しい状況の中でも、

 

今私にできることは何か?

 

と考えることの方が建設的だし、

 

本当の優先順位は何か?と、

 

考えることの方が大事だと思う。

 

それから世間の人たちは、

 

社会に出て仕事をして、

 

頑張っているのが現実である。

 

また私に関して言えば、

 

社交不安障害があったとしても、

 

小学校の先生だった時、

 

指導する立場である以上は、

 

子どもが優先されるのが当然で、

 

特に配慮されたことはなかった。

 

人前に出ることが仕事だし、

 

もちろん私も取り組むが、

 

でもそうすると頭重感が出るし、

 

息が詰まりそうになる。

 

それが最後まで慣れなかったので、

 

教師は泣く泣く諦め、

 

人と関わるのが少ない仕事を探し、

 

施設清掃のパートを選択した。

 

という風に自分ができることを、

 

探し続けることも必要だと思う。

 

私は結婚するまでに時間が掛かり、

 

現在妻の扶養で生活しているので、

 

説得力に欠けるところはあるが、

 

結局は現実生活に即するように、

 

自分だけが被害者だという、

 

偏った考えを変えることが大事で、

 

理想ばかり追い求めるよりも、

 

答えを手に入れる上では、

 

早道になるのではないかと考える。

子どもが生まれてから、

 

私の心に余裕が生まれ、

 

そのため最近になって、

 

自分の性格を把握できたようで、

 

それが、いわゆる狂気性である。

 

今までも薄々わかっていたが、

 

これは親のせいであるとか、

 

本当の私ではないのだとか、

 

見て見ぬ振りをしていた。

 

これがあるということは、

 

人に嫌われるかもしれない、

 

それに私はよく人に、

 

優しいとか言われるから、

 

それを維持するためには、

 

隠さなければいけない、

 

と思っていた節があった。

 

しかし最近になって、

 

冷静に考えてみると、

 

狂気性も含めた私が私なのだと、

 

受け入れられるようになり、

 

やっと自己一致できた気がする。

 

ただ、なぜ狂気性があるのか?

 

どうも私は自己評価が高く、

 

周囲が正当に評価していないと、

 

感じた時に怒りを覚えていた。

 

人を恨んだり妬んだりしていたが、

 

実際は私が周囲と同じように、

 

振る舞うことができず、

 

その劣等感や不満を、

 

人にぶつけていたに過ぎない。

 

その鬱屈を減らすために、

 

時には陰で誰かを、

 

陥れるようなこともしていた。

 

これは異常な承認欲求と言えるが、

 

つまるところ自己愛の強さ、

 

これがすべての元凶だと思う。

 

私にとっての完璧さを求め、

 

それが現実ではできないことで、

 

精神的に歪みが生じてきて、

 

屈折した行動を起こしていた。

 

それに人間嫌いになったのも、

 

必然だったような気がする。

 

ところで私はお祓いを受けた際、

 

そのお寺の住職から最後に、

 

「あなたは今後何をやっても、

 

幸せになるから安心してください」

 

みたいなことを言われて、

 

それを聞いた瞬間に、

 

私は何とも言えないような、

 

幸福感に包まれたのである。

 

自分でも当時は常日頃から、

 

私は特別な人間ではないのか、

 

選ばれた人間ではないのか、

 

というようなことを感じていて、

 

それを断言するように、

 

他者が言語化してくれたから、

 

より一層信じるようになった。

 

そして大学生になると、

 

万能感が体中を占めていて、

 

暗い高校生活とはうって変わり、

 

ハイテンションな性格になる。

 

周囲はそれを面白がってくれ、

 

良い方向に進んだことで、

 

初めて親友や恋人ができれば、

 

特別感は確固たるものになった。

 

大学生で作る雑誌編集にも携わり、

 

時には自分で企画して、

 

福岡にある「あんみつ姫」に、

 

1人でインタビューに行き、

 

それを記事にしたこともあるし、

 

RKBの大学生中心のラジオにも、

 

パーソナリティの1人として、

 

1年ほど参加したこともある。

 

その時には番宣?のため、

 

ゲストで来た萩本欽一さんに、

 

「〇〇お前面白いな、

 

ずっと覚えているからな」

 

みたいなことを言われて、

 

舞い上がったことを覚えている。

 

人生って楽しいなぁ、

 

まだまだ遊びたいなぁ、

 

なんてことを考えていたので、

 

大学を卒業しても就職せず、

 

スナックでボーイをしたり、

 

ヒッチハイクで九州一周や、

 

震災後の関西まで行ったり、

 

1人で海外渡航をしたりと、

 

気ままな暮らしを送っていた。

 

ただ、こんな生活もここまでで、

 

タイでパスポートを盗まれて、

 

日本に帰国してからは、

 

その一度の失敗が尾を引いて、

 

あれ?本当に幸せになるのか?

 

と徐々に疑心暗鬼になっていき、

 

今までの万能感が薄れていく。

 

少しずつやる気を失っていき、

 

時には親友に対し、

 

「なんか胸あたりが重い」

 

と吐露することもあった。

 

なんとか以前の明るさを保ち、

 

自分で描いた絵を、

 

福岡天神の道で売ってみるなど、

 

再び行動を起こしていくが、

 

人と会うのが億劫になり始め、

 

モヤモヤが増していくと、

 

意味もなく苛立つようになり、

 

結局親友や恋人が離れていった。

 

その後は長崎に戻って、

 

部屋に閉じこもったわけだが、

 

この頃は自分に特別感はなく、

 

むしろ親とさえ会話できないのが、

 

逃げられない現実として、

 

重くのしかかってきており、

 

救いようがないほどに、

 

落ち込んでいったのである。

 

何でもできるはずだと、

 

思い描いている自分と比べ、

 

現実はそれに全然及ばなくて、

 

それとの落差の大きさに、

 

愕然としてしまっていた。

 

こういう風に落ち込み、

 

しまいに絶望感を抱いたのも、

 

自己愛のせいだと言える。

 

ところで私の自己愛は、

 

自分に自信はあるけれど、

 

それは私にとっての、

 

困難を乗り越えてきたという、

 

ただそれだけのことで、

 

つまりは形になっていないし、

 

自己満足に過ぎないものだ。

 

それに皆がやっている仕事さえ、

 

実際はまともにできないし、

 

そもそも会話できないのだから、

 

ただの過信になるだろう。

 

結局はまだ自分のことを、

 

大して根拠もないのに、

 

特別なものとして捉えており、

 

それを自覚している一方で、

 

未だに変わっていないので、

 

私の自己愛というのは、

 

いわゆる自己肯定感という、

 

健全なものというよりも、

 

病的だと感じるのである。
 

だから私は何かのきっかけで、

 

また自分を否定することや、

 

傷つけることがあるくらい、

 

まだまだ不安定だと言えて、

 

今は子どもの存在があって、

 

前向きになっている気がする。

 

ちなみに子どもは順調に成長し、

 

少しずつ単語を言うようになり、

 

その姿に喜びを覚える。

 

この前は私が自身を指さし、

 

「誰かな?」と尋ねると、

 

「パパ」ではなくて、

 

「いやっ」と言った。

 

そして、その顔も、

 

少しいじわるそうな微笑みで、

 

からかっているみたいだが、

 

その顔がまた可愛らしく、

 

「なんで嫌なんだよ」

 

とじゃれ合っていた。

 

それを見た妻が、

 

「ホント好きなんだね」

 

とボソッと呟いたけれど、

 

私は好きというよりも、

 

愛おしさを感じている。

 

これが愛情というものか、

 

と私は初めて抱く感情に、

 

嬉しさが込み上げてくるが、

 

やはり愛しているというより、

 

愛されているというのが、

 

私にはしっくりくるのだ。

 

子どもに必要とされていると、

 

私は感じているから、

 

よし、明日も頑張るか、

 

と前向きになれるのだと思う。

 

そして、今は素直に言える。

 

人は1人では生きていけないのだと。

恋人にフラれた時、

 

私は43歳で焦っていた。

 

それは早く結婚しなければ、

 

という思いがあったからだ。

 

まだ彼女への未練というか、

 

なぜ別れることになったのか、

 

今からでも復活できないのか、

 

などということをしばらく考え、

 

恋愛をする気になれなかったが、

 

このまま歳を重ねると、

 

独身のまま人生が終わると、

 

少し怖くなってしまったので、

 

もう彼女のことは諦めて、

 

婚活に力を注ぐことにした。

 

ネットで調べると、

 

個人の飲食店が主催する、

 

婚活パーティーが見つかった。

 

男性残り1名とあったので、

 

これはラッキーだと心躍るも、

 

よく応募条件を見ると、

 

40歳までと書かれている。

 

あぁ、ダメだと思ったが、

 

一応確認のため電話してみた。

 

正直に年齢を告げると、

 

初めは困惑した感じだったが、

 

今回は大丈夫ということで、

 

参加できることになったのだ。

 

実際参加してみると、

 

30代だけでなく20代の男性もいて、

 

年齢制限が40歳までというのが、

 

すごく納得できる一方で、

 

これは厳しい戦いになるぞ、

 

と褌を締めて臨んだが、

 

そんな気合いも必要なく、

 

結局誰からも相手にされず、

 

手応えがないまま終わった。

 

途中である男性から、

 

「本当に40?老けてるけど」

 

みたいなことを言われて、

 

ヤバイと焦ってしまい、

 

あぁ、老けてるかもね~

 

と笑いにすることもなく、

 

ただただ返したわけだが、

 

そもそもそれを言ったところで、

 

お互いメリットないだろ、

 

と心で毒づいたところ、

 

それが表情に出ていたのか、

 

元々興味がなかったのか、

 

それ以降女性たちは、

 

私に話し掛けてこなかった。

 

まぁその男もカップルになれず、

 

いい気味だと心の中で笑ったが、

 

私も同類なので馬鹿である。

 

やっぱり43歳は難しいかもな、

 

と意気消沈していたが、

 

後日主催者から電話があり、

 

「〇〇さんに会いたいという人が、

 

今度のパーティーに来ますが、

 

〇〇さん参加しますか?」

 

とみたいなことを言われたので、

 

もちろん快諾して参加した。

 

私を知っているということは、

 

てっきり前回の参加者と思ったが、

 

その相手の女性に憶えがなく、

 

でも勘違いかもしれないなと、

 

一応主催者から聞いたことを、

 

素直に彼女に話してみると、

 

気持ち悪がられて離れていった。

 

で、さすがに鈍くさい私も、

 

なるほどモテない男には、

 

これを口実に参加させているのだ、

 

ということがわかったのである。

 

パーティーが嫌いになった私は、

 

丁度できたばかりの

 

市の婚活サポートに登録した。

 

まだ全体の登録数は少なかったが、

 

公開されているプロフィールで、

 

こまめに女性の条件を、

 

パソコンでチェックしていくと、

 

ほとんどが40歳までとあり、

 

収入もシビアな金額があった。

 

逆に私が条件に合う女性は、

 

私の望んでいる条件に合わず、

 

そこに3ヶ月くらい通ったが、

 

全く合致しないままだった。

 

ちなみに当時の私は、

 

子どもが欲しかったので、

 

女性の年齢制限を、

 

35歳までとしていた。

 

今は反省しているというか、

 

自分の年齢と顔を差し置いて、

 

都合がいいこと抜かすなと、

 

我ながら呆れることもあるが、

 

人間は自分の都合のいいように、

 

考えるものなのでこれで終わる。

 

そして気づけば44歳になっており、

 

これは結婚は難しいかも、

 

と半ば諦めかけた時に、

 

ふと職場の前の席の女性に気づく。

 

毎日一緒に仕事しているのだから、

 

気づくというのも変だけれど、

 

話し掛けても素っ気ないし、

 

掴み所がないと感じていたから、

 

ほとんど会話することがなかった。

 

でも改めてよく見ると、

 

あれ?この人はまだ30前半かも、

 

ということに気づいた。

 

で、できるだけさり気なく、

 

彼女の個人情報を収集する・・・

 

って、かなり怪しい奴だが、

 

会話の中で年齢を確認すると、

 

思った通り30前半だった。

 

おぉ、条件に合っている!!

 

とマイチェック項目に丸つける。

 

そこからしばらくして、

 

独身なのかを確認すると、

 

独身ということで、

 

よしっ!と丸をつける。

 

また現在のところ、

 

彼氏はいないということで、

 

おっ、これはもしかすると?と、

 

勝手に盛り上がっていく(馬鹿)

 

まぁ結局数人の飲み会を開き、

 

メルアドをゲットした後は、

 

デートに誘って付き合い、

 

その1年半後には結婚した。

 

やはり人生というのは、

 

どうしても手に入れたいと、

 

強く願うような時はダメで、

 

力が抜けた時の方がうまくいく、

 

というのは本当なのだなと、

 

改めて実感したのである。

 

・・・とか言いながらも、

 

相手の気持ちは考慮せず、

 

自己本位なのは自覚しているが。

 

子どもができた時の話だと、

 

すでに一度書いているが、

 

私たちは顕微鏡受精をして、

 

4回目の移植で妻は妊娠した。

 

不妊治療をしてから、

 

すでに3年ほど経っており、

 

子どもが産まれた瞬間の、

 

その喜びはひとしおだった。

 

現在子どもは1歳を過ぎ、

 

まだ単語だが言葉も発して、

 

成長しているのがよくわかる。

 

そして笑顔を見せてくれれば、

 

私も自然と笑顔になり、

 

ずっとこれを求めていたのだ、

 

と、その幸せを噛みしめている。

 

ところで私はひきこもった後、

 

絶対この部屋ではなく、

 

答えは外にあると思って、

 

覚悟を決めて動き始めた。

 

その判断が良かったと思う。

 

やはり親のせいにして、

 

親を恨みながら部屋にいても、

 

この幸せは手にしなかった。

 

また、できないことではなく、

 

小さなことだったとしても、

 

今できることを見つけて、

 

それに取り組んだことは、

 

すぐに答えが出なくても、

 

たとえ長い時間が掛かっても、

 

間違いではなかった気がする。

 

きっとどんな状況でも、

 

人生に受け身のままでは、

 

いつまでも答えは出ないのだろう。

私がひきこもっても、

 

頑張ることができたのは、

 

母の耐えて頑張るという、

 

その後姿を見ていたからだろう。

 

母に対し恨むこともあったが、

 

母の愛情があったからこそ、

 

命を絶たなかったわけだし、

 

今では感謝の方が大きい。

 

だから母に孫の顔を、

 

見せることができた時は、

 

本当にホッとしたものだ。

 

ひきこもりから抜け出して、

 

バイトにも慣れてきた頃、

 

新しく恋人ができたが、

 

付き合って8ヶ月後に、

 

彼女の白血病が再発した。

 

完治したと聞いていただけに、

 

私はすごく驚いたけれど、

 

彼女はそれ以上に、

 

落ち込み方はひどかった。

 

彼女は気持ちを整理して、

 

入院後骨髄移植を行い、

 

数値も安定して退院する。

 

私は当時他県にいたため、

 

毎週帰省して彼女に会っては、

 

日頃の出来事を話したり、

 

今後の遊びの予定を立てたりした。

 

しかし白血球の数値は安定せず、

 

その後も入退院を繰り返し、

 

外出することさえ難しくなる。

 

彼女は完治できるように、

 

前向きに頑張っていたし、

 

希望は捨てていなかったが、

 

ある日彼女が何気につぶやいた。

 

「私は普通に仕事をして、

 

普通に結婚したかった・・・

 

普通に生活したかっただけなのに」

 

私はただ手を握るだけで、

 

何も返すことができなかった。

 

そして、その数ヶ月後の、

 

2001年9月11日に、

 

彼女は亡くなったのである。

 

契約が切れる翌年の3月まで、

 

私は臨時の教師を続け、

 

終わり次第すぐに上京して、

 

姉のいるアパートに住んだ。

 

生活環境を変えれば、

 

気持ちが落ち着くと思ったが、

 

しばらくは彼女への喪失感と、

 

慣れない場所への孤独感があり、

 

何もできない日々が続く。

 

私を唯一理解してくれた、

 

彼女がいなくなったことで、

 

これから先は良いことがない、

 

といつもの悲観癖が出てしまい、

 

再び絶望感が体を占めていった。

 

ただ姉のサポートもあって、

 

徐々に心が落ち着いてくれば、

 

亡くなった彼女のつぶやきを、

 

私は改めて思い出し、

 

地に足をつけて生きるため、

 

とりあえずパートの仕事を決め、

 

のち1人暮らしを始めた。

 

やはり東京生活は、

 

田舎と文化が違うというか、

 

カルチャーショックみたいに、

 

戸惑うことが多いし、

 

周囲ともトラブルを起こして、

 

自信がもてない日々の中、

 

心が折れそうになったけれど、

 

仲間や恋人ができていけば、

 

徐々に生活にも慣れていった。

 

最終的に東京での目標は叶わず、

 

何も手にすることはなかったが、

 

自分の気持ち次第で、

 

道が開けることがわかったのは、

 

それなりに自信になったと思う。

 

40歳で長崎に戻り定職に就いて、

 

新しく恋人ができたことで、

 

強く結婚を意識するが、

 

その思いが重かったようで、

 

結局フラれてしまった。

 

その後に職場の人と付き合い、

 

しばらくして結婚をして、

 

子どもができたのである。

 

現在私の心に余裕が生まれ、

 

冷静に考えることが増えたが、

 

思い返すと要所要所で私は、

 

誰かに支えられてきたと思う。

 

もうダメだという時に、

 

家族や恋人、仲間などが、

 

手を差し伸べてくれたおかげで、

 

今の私があるような気がする。

 

私自身も誰かのせいにせず、

 

責任をもって生きるように、

 

自分なりに努力してきたのも、

 

良かったのかもしれない。

 

部屋にとじこもっていた時に、

 

社会に出ることでしか、

 

私は幸せにはなれないと考え、

 

人と繋がろうとしたのは、

 

正解だったと言えるだろう。

 

ただ、そんな私は今でも、

 

自分の思いを優先してしまい、

 

相手への感謝が足りない、

 

というのは自覚できているから、

 

今後の課題になるだろうな・・・

 

って、もう52歳なんだけど。

変わり者の父からDVを受けても、

 

決して離婚しなかった母の方が、

 

変わっている気がしたが、

 

やはり母の我慢強さのおかげで、

 

私は衣食住には特に困らず、

 

それに、ひきこもり時でも、

 

普通に生活することができた。

 

本当に感謝している一方で、

 

ただ母の愛情深さというか、

 

過保護的な部分には、

 

息が詰まったこともある。

 

私が小さい頃から、

 

母が何でも決めていて、

 

決断できない時分には、

 

それが当然かもしれないが、

 

例えば中学生になっても、

 

母が雨が降りそうだから、

 

傘を持っていきなさい、

 

と言えば素直に従っていたし、

 

高校生になっても、

 

母が決める私服を着ていた。

 

そもそも私は中学生まで、

 

母と同じ部屋で寝ており、

 

私が母に対する依存度は、

 

高かったように感じるし、

 

母も私に密に関わるというのが、

 

自然だったのではないかと思う。

 

高校生になってからは、

 

2階の自室で過ごすようになるが、

 

いつも息苦しさを感じて、

 

それまで反抗期はなかったのに、

 

両親に暴言を吐いたり、

 

父と衝突したりすることが、

 

急に増えていったのである。

 

精神的にひどい時には、

 

2階から階段で勢いよく、

 

椅子を落としたこともあり、

 

問題行動が顕著になった。

 

丁度その頃1人で部屋にいると、

 

誰かの視線を感じるようになり、

 

それがきっかけでお寺に行き、

 

無事にお祓いできたことで、

 

それ以降は問題行動が減り、

 

一応落ち着いて過ごすわけだが、

 

結局は私の成長過程において、

 

親離れをする時期が始まり、

 

おそらく、その一方で、

 

親に甘えたいという気持ちもあり、

 

そのせめぎ合いの中で、

 

問題行動が起こったのだろう。

 

特に私の場合は友人と遊ぶなど、

 

外で発散することがなかったから、

 

余計に親に当たったのだと思う。

 

大学生になると県外に行き、

 

1人で過ごす時間が増えて、

 

初めて親友や恋人ができると、

 

毎日を楽しめるようになった。

 

しかし卒業してからは、

 

就職もせず海外渡航など、

 

好きなことをしていた反面、

 

パスポートを盗まれたことで、

 

取り乱してしまったという事実が、

 

自分自身認めきれなくて、

 

徐々に不安定になっていけば、

 

些細な喧嘩で親友と会わなくなり、

 

恋人からは愛想を尽かされて、

 

24歳で別れを告げられた。

 

そして実家に戻った私は、

 

自分を見失ってしまったことで、

 

両親と会話ができなくなり、

 

ひきこもることになったのである。

 

そこからは紆余曲折あり、

 

部屋から出られるようになった、

 

ある日の話になるけれど、

 

風呂に入るため1階に下りて、

 

私が廊下を歩いている時、

 

横に両親の寝室があり、

 

そのドアが開いていたので、

 

布団に寝ている母と目が合う。

 

私の動きが一瞬止まったところ、

 

母がおもむろに掛け布団を開き、

 

「ここで寝ていいよ」

 

と労るように言葉を発したが、

 

その瞬間私は母に対して、

 

強烈に殺意を覚えたのである。

 

「この親のせいで、

 

俺がこんなに苦しんでいるんだ」

 

私はその思いを言葉にできず、

 

無言のまま立ち去ったのだが、

 

その後は悶々と過ごすことになる。

 

もちろん母は愛情から、

 

あのようなことを言ったのだ、

 

と理解はしていたし、

 

命を奪うわけにはいかないと、

 

理性的に考えることができても、

 

男として情けないと、

 

感情が乱れていたのは確かだ。

 

ただ時間が経つにつれて、

 

冷静になっていけば、

 

ある考えに集約されていく。

 

きっと母は親として、

 

子どもの私を守ろうとしているが、

 

それは成人した私としてではなく、

 

小学生くらいとしか見ていない。

 

それに母がそうなるのは、

 

私が成長できていないからで、

 

情けないと感じるのも、

 

全ては自分のせいなのだ、

 

と気づいたのである。

 

そこからはさらに覚悟を決めて、

 

母に心配を掛けないためにも、

 

決して相談や悩みを話さず、

 

自分の力でこの現状を乗り越える、

 

そして現実生活にしか、

 

私が欲しい答えはないはずだから、

 

漫画やテレビだけに救いを求めず、

 

実際に人との繋がりを作り、

 

解決していくことを選択した。

 

もしかしたら1人で抱え込まず、

 

両親に相談したり、

 

病院に行ったりした方が、

 

現実的だったかもしれないが、

 

当時の私にとっては、

 

それが弱さというものであり、

 

精神的に自立できないと、

 

本気で考えていたので、

 

歯をくいしばりながらも、

 

自力解決に全力を注いだ。

 

結果的には社会に出て、

 

バイトができるようになり、

 

新しい恋人もできて、

 

絶望感が薄らいでいくことで、

 

現実生活に答えがあるというのは、

 

間違いではなかったと思う一方で、

 

母から本当に自立できたのは、

 

結婚した46歳と考えれば、

 

22年掛かったと言えるだろう。

 

現実に即して行動することで、

 

自信になっていったとしても、

 

自立できるというのは別で、

 

私の場合は依存度が高かった分、

 

自分に責任をもつまでには、

 

かなり時間を要したという印象である。

私は子どものために生きている、

 

そんなことを考えていると、

 

自然と両親のことも考えた。

 

父も母も私のために、

 

頑張って働いてくれたから、

 

大学まで行くことができ、

 

ひきこもりの時も、

 

実家に住んでいたわけだから、

 

支えになってくれたと言える。

 

その後も定職に就くまでに、

 

約15年掛かっているし、

 

きっと心配したことと思う。

 

子どもができて初めて、

 

親の気持ちがわかるというのは、

 

どうも本当のことようだし、

 

父は亡くなってしまったが、

 

散々迷惑を掛けてきた母に、

 

孫を見せることができて、

 

本当に良かったなと考える。

 

ところで私の父は変わり者で、

 

よく「変人」と言われていた。

 

端から見ると、

 

父は家と職場の往復で、

 

ギャンブルも遊びも一切せず、

 

稼いだ金を全て家におさめ、

 

公務員として勤め上げたという、

 

真面目で良い父親なのである。

 

だから父がどう変人だったのか、

 

説明するのが少し難しいが、

 

母の証言と私の主観で書いてみる。

 

小さい頃の父は、

 

「天邪鬼」と称されるほど、

 

すべてにおいて逆のことをした。

 

人に優しくされるのも拒否、

 

物を貰うのも拒否というように、

 

可愛げがない子どもだったらしい。

 

貧乏の子だくさんだったから、

 

いつもお腹が空いていたようだが、

 

食事以外で何かを貰うというのが、

 

どうも許せなかったようで、

 

頑なに拒否をしていたし、

 

兄2人からは疎まれていて、

 

父も心を開いていなかった。

 

母が父と結婚する際には、

 

父の母からは涙を流して、

 

感謝の言葉を言われたという、

 

それくらいに厄介者だった様子。

 

次に母の実家に挨拶に行ったが、

 

どうも父の様子がおかしいと、

 

母は何かを感じ取ったらしい。

 

しかし帰りの道中で尋ねても、

 

父が特に何も言わないので、

 

緊張していただけかもと考える。

 

で自宅に帰ってきて、

 

ゆっくりしようかと思った矢先、

 

父が台所に行き戻ってくると、

 

包丁を手に立っていた。

 

母はそれを見て固まった直後、

 

父は包丁を勢いよく畳に刺し、

 

「俺のことを笑っていた。

 

みんな俺を馬鹿にしていた」

 

と泣きながら訴えたという。

 

もちろん母は否定したが、

 

父は全く聞き入れる様子もなく、

 

自分の思いを吐き続けたようだ。

 

この時のことを母から聞いた私は、

 

もちろん引いてしまい、

 

「え!?そこまでされて、

 

なぜ結婚破棄しなかったの?」

 

と誰もが思うことを質問すると、

 

「お父さんが可哀想に感じて、

 

これからは私が守ろうと思ったから」

 

みたいなことを母は言ったのである。

 

「えぇーー!!!」

 

と思わず私は叫んでしまったが、

 

これは母の愛情の深さというより、

 

何か脳に欠陥があるかもしれない、

 

と疑ってしまうくらい驚いたし、

 

とにかく母の方が父よりも、

 

変人かもと思ったのは確かだ(苦笑)

 

話を戻すと私が小さい頃、

 

父が母に暴力を働いたり、

 

叱責したりしたのも覚えているし、

 

怪我をした母とともに、

 

何回か避難したこともある。

 

私自身も父と遊んだことより、

 

ひどく怒られたことや、

 

叩かれたことの方が、

 

記憶として強く残っている。

 

決して厳しいだけではなく、

 

優しいところもあったが、

 

例えば成長した私が、

 

相談をしたとしても、

 

父は「俺にはわからん」

 

と切り捨てるところがあり、

 

助言を貰ったこともなければ、

 

人生の教訓みたいなこともない。

 

どちらかと言えば、

 

小言みたいなことを言われて、

 

きっと父からは好かれていない、

 

と徐々に感じるようになり、

 

そこから父が嫌いになって、

 

衝突することが増えていった。

 

おそらく父は他者に関心がなく、

 

人の気持ちがわからないという、

 

どこか発達障害的なところがあり、

 

そのためか友人ができたことは、

 

どうもなかった様子だった。

 

また父は退職してからは、

 

新聞をノートに書き写すという、

 

ある意味修行のようなことを、

 

毎日欠かさずやっており、

 

これも特徴のような気がする。

 

ちなみに、その姿を見ていた私は、

 

なぜ書き写すのかと尋ねると、

 

「いつかわかる時がくる」

 

と父は意味深なことを言って、

 

話が終わってしまったことがある。

 

いつもそんな調子なので、

 

会話にならないことが多く、

 

確か30代後半だったと思うが、

 

何かの会話をしている時に、

 

私はついにキレて、

 

父に向かって包丁を滑らせ、

 

「それで俺を刺しにこい!!

 

その代わり俺はお前を殴り殺す!」

 

というようなセリフを叫んだ。

 

すでに70歳近かった父に対し、

 

ハンデを上げたつもりだったが、

 

母の「やめてぇー!!」

 

という言葉で我に返って終わる。

 

もし母がいなかったら、

 

どうなっていたかわからないが、

 

そもそも冷静になってみると、

 

私も父と同じように、

 

危険な人間なのだとその時知った。

 

父のようになりたくないと、

 

頑張ってきたはずなのに、

 

実際はコミュニケーションが苦手で、

 

友人がいなくなった時期もあるし、

 

恋人に逃げられたこともある。

 

私も「変人」と言われていたし、

 

結局は否定していた父と、

 

同じなのだとわかるようになり、

 

なんと言うか狂気性も自覚できた。

 

今ではそれも受け入れて、

 

それを含めた私が私なのだと、

 

ただ、それを出さないように、

 

今後はまた物事の捉え方を、

 

見つめ直す必要があるかな、

 

と改めて考えているのである。

最近私が口にしている言葉があり、

 

それは「楽しくない」である。

 

自分でも無意識に発していて、

 

そのことに改めて気づいた時、

 

今の生活を私は楽しめていない、

 

ということが自覚できた。

 

確かに現在の仕事は、

 

誰でもできるような清掃だし、

 

それもパートとして働いており、

 

同世代の50代と比べれば、

 

明らかに落ちぶれている。

 

私の同級生には学校の教頭、

 

国立病院の部長医師や、

 

県警察本部の参事官など、

 

堅い仕事の人もいれば、

 

東京で活躍する作家もいて、

 

その華やかなものと比べ、

 

月10万しか稼げない現実に、

 

私は情けなさを感じてしまう。

 

それに人と会話をすると、

 

どうしても眉間が重くなり、

 

ひどい頭重感を覚えるので、

 

息苦しくなるのだが、

 

これがあるせいで、

 

行動が制限されるのも事実で、

 

リウマチが出るものあって、

 

教師(契約社員)も3年で辞め、

 

心と体に負担にならないように、

 

人と関わらないものや、

 

勤務時間が短い仕事として、

 

施設清掃を選んだのである。

 

東京にいた30代、

 

彼女の死を乗り越えてからは、

 

目標に向かって行動を起こし、

 

少しずつ結果を出すようになり、

 

また様々な人と出会い、

 

たくさんの刺激をもらって、

 

しんどいことがありつつも、

 

全体的には楽しかったと思う。

 

ただ40歳で長崎に戻ってからは、

 

仕事も恋愛も上手くいかず、

 

その上東京に比べて、

 

刺激が少なくなったことで、

 

楽しめることが少なくなり、

 

いつも苛々していた気がする。

 

それに東京においては、

 

わりと安定していた頭重感が、

 

長崎に戻ってきてからは、

 

慢性的に出るようになって、

 

人と対面するのもしんどく、

 

知人と会わないようにと、

 

人混みを避けるようにもなった。

 

しばらくして私の症状が、

 

社交不安障害によるものだと知り、

 

腑に落ちたのは良かったけれど、

 

人生が上手く行くようには思えず、

 

なんのために生きているのか、

 

このまま生きていても、

 

意味ないのではないか、

 

などという考えが、

 

頭をもたげ始めたのである。

 

それに自分のために生きるのは、

 

もう限界かもしれないな、

 

と、この頃気づくようになり、

 

結婚を強く意識するようになる。

 

そこから約3年掛かって、

 

なんとか結婚することができ、

 

そこから約4年掛かって、

 

念願の子どもができたわけだが、

 

今の私の素直は気持ちは、

 

「幸せだなぁ」ということだ。

 

私の子どもがいるという事実と、

 

その子が笑顔になるだけで、

 

私も自然と笑顔になれるし、

 

頑張ろうと思えるのである。

 

それに頭重感が出る私も私だと、

 

受け入れるようにもなり、

 

これからも生きていいのだと、

 

肯定できるようにもなった。

 

私は人間嫌いではあるけれど、

 

自分が楽しむだけに留まらず、

 

人と繋がることを選択したのは、

 

正解だったと心から言える。

 

もちろん子どもが全てではないが、

 

誰かのために生きたいと願い、

 

そして子どものために、

 

何かできるということが、

 

私にとっては理屈抜きで、

 

本当の幸せなのだと感じるのだ。

 

これが居場所というものだろうか。

 

ところで「幸せ」なのに、

 

「楽しくない」のはなぜか?

 

おそらく2つのことは、

 

必ずしも一致しないのだろう。

 

楽しい生活ではなくても、

 

私は幸せを感じており、

 

その幸せは仕事の職種や稼ぎ、

 

地位などとも関係なく(たぶん)

 

やはり私がずっと求めていた、

 

"誰かと心から笑い合える”

 

ということだと実感している。

 

ただ妻からすれば、

 

この狭いアパート暮らしから、

 

例えば一軒家とかに住むために、

 

もっと稼いで欲しいだろうし、

 

私が考えているほど、

 

幸せではないかもしれない。

 

それに私の場合は、

 

子どもために生きると言っても、

 

それは愛しているというより、

 

子どもに必要とされている、

 

愛されているという感じだし、

 

自己中心的な考えからは、

 

まだまだ抜け出せないでいる(^^;)

東京にいた30代では、

 

よく「ついてないなぁ」

 

という言葉を漏らしていた。

 

目標に向かって頑張るも、

 

なかなか思うように進まず、

 

また人に騙されるというか、

 

利用されて損することが続き、

 

嫌な気持ちになっていた。

 

しかし、なぜ私が、

 

「ついてない」と感じるかを、

 

当時ふと考えてみると、

 

結局自分の人生に対して、

 

受け身だということに気づく。

 

どこか他人任せで、

 

責任転嫁もしていたことを知り、

 

それ以降は人生に責任をもつ、

 

ということを心掛けていくと、

 

想定外の出来事があったり、

 

嫌な気持ちになったりしても、

 

「まぁ仕方ない」と諦め、

 

心乱すことは減っていったし、

 

「ついてない」という言葉も、

 

言わなくなったのである。

 

自分の気の持ちようで、

 

良くも悪くもなるというのが、

 

改めて理解できたわけだが、

 

一つ悪くなったからと言って、

 

全てが悪くなるわけではない、

 

というようなことも、

 

納得できるようになった。

 

ところで、その頃の私は、

 

「変わってる」とは別で、

 

「考え過ぎ」と言われていた。

 

自分でも薄々気づいていたが、

 

気になるとどうしても、

 

納得いく答えが欲しくてなり、

 

もう頭が痛くなるくらい、

 

しつこく考えていた。

 

また人の言動が気になって、

 

愚痴みたいのを言った後に、

 

「それは考え過ぎ」と、

 

相手から言われると、

 

一生懸命話しているのに、

 

なんて失礼な奴なんだと、

 

不快になることもあったが、

 

まぁ、そんな話をされては、

 

もちろん返す言葉もないよな、

 

と、のちわかるようになる。

 

当時愚痴が多かったのは、

 

きっと現状に満足いかず、

 

人が羨ましく思えたからだ。

 

それに私がどういう風に、

 

人に見られているのかも、

 

とても気にしていたから、

 

それ相応の評価がないと、

 

逆に誰かを批判したり、

 

揚げ足を取ったりするような、

 

言葉を発していたと思う。

 

結局は自己中心的な考えで、

 

他者に配慮することはなく、

 

そのために人と衝突や、

 

トラブルを起こしていた。

 

どちらにしても当時の私は、

 

憶測の域を出ないものに対して、

 

一喜一憂していたのは確かで、

 

再び根拠を大事にしていき、

 

それを基に行動することで、

 

安定していったところはある。

 

それに人は曖昧だし、

 

矛盾しているものだし、

 

それらを許せることと、

 

そんな私を受け入れることで、

 

考え過ぎることは少なくなり、

 

最近は楽になった気がする。