すべては愛 | 絶望日記

絶望日記

マジメに適当なひとり言を綴ってます。

子どもが生まれてから、

 

私の心に余裕が生まれ、

 

そのため最近になって、

 

自分の性格を把握できたようで、

 

それが、いわゆる狂気性である。

 

今までも薄々わかっていたが、

 

これは親のせいであるとか、

 

本当の私ではないのだとか、

 

見て見ぬ振りをしていた。

 

これがあるということは、

 

人に嫌われるかもしれない、

 

それに私はよく人に、

 

優しいとか言われるから、

 

それを維持するためには、

 

隠さなければいけない、

 

と思っていた節があった。

 

しかし最近になって、

 

冷静に考えてみると、

 

狂気性も含めた私が私なのだと、

 

受け入れられるようになり、

 

やっと自己一致できた気がする。

 

ただ、なぜ狂気性があるのか?

 

どうも私は自己評価が高く、

 

周囲が正当に評価していないと、

 

感じた時に怒りを覚えていた。

 

人を恨んだり妬んだりしていたが、

 

実際は私が周囲と同じように、

 

振る舞うことができず、

 

その劣等感や不満を、

 

人にぶつけていたに過ぎない。

 

その鬱屈を減らすために、

 

時には陰で誰かを、

 

陥れるようなこともしていた。

 

これは異常な承認欲求と言えるが、

 

つまるところ自己愛の強さ、

 

これがすべての元凶だと思う。

 

私にとっての完璧さを求め、

 

それが現実ではできないことで、

 

精神的に歪みが生じてきて、

 

屈折した行動を起こしていた。

 

それに人間嫌いになったのも、

 

必然だったような気がする。

 

ところで私はお祓いを受けた際、

 

そのお寺の住職から最後に、

 

「あなたは今後何をやっても、

 

幸せになるから安心してください」

 

みたいなことを言われて、

 

それを聞いた瞬間に、

 

私は何とも言えないような、

 

幸福感に包まれたのである。

 

自分でも当時は常日頃から、

 

私は特別な人間ではないのか、

 

選ばれた人間ではないのか、

 

というようなことを感じていて、

 

それを断言するように、

 

他者が言語化してくれたから、

 

より一層信じるようになった。

 

そして大学生になると、

 

万能感が体中を占めていて、

 

暗い高校生活とはうって変わり、

 

ハイテンションな性格になる。

 

周囲はそれを面白がってくれ、

 

良い方向に進んだことで、

 

初めて親友や恋人ができれば、

 

特別感は確固たるものになった。

 

大学生で作る雑誌編集にも携わり、

 

時には自分で企画して、

 

福岡にある「あんみつ姫」に、

 

1人でインタビューに行き、

 

それを記事にしたこともあるし、

 

RKBの大学生中心のラジオにも、

 

パーソナリティの1人として、

 

1年ほど参加したこともある。

 

その時には番宣?のため、

 

ゲストで来た萩本欽一さんに、

 

「〇〇お前面白いな、

 

ずっと覚えているからな」

 

みたいなことを言われて、

 

舞い上がったことを覚えている。

 

人生って楽しいなぁ、

 

まだまだ遊びたいなぁ、

 

なんてことを考えていたので、

 

大学を卒業しても就職せず、

 

スナックでボーイをしたり、

 

ヒッチハイクで九州一周や、

 

震災後の関西まで行ったり、

 

1人で海外渡航をしたりと、

 

気ままな暮らしを送っていた。

 

ただ、こんな生活もここまでで、

 

タイでパスポートを盗まれて、

 

日本に帰国してからは、

 

その一度の失敗が尾を引いて、

 

あれ?本当に幸せになるのか?

 

と徐々に疑心暗鬼になっていき、

 

今までの万能感が薄れていく。

 

少しずつやる気を失っていき、

 

時には親友に対し、

 

「なんか胸あたりが重い」

 

と吐露することもあった。

 

なんとか以前の明るさを保ち、

 

自分で描いた絵を、

 

福岡天神の道で売ってみるなど、

 

再び行動を起こしていくが、

 

人と会うのが億劫になり始め、

 

モヤモヤが増していくと、

 

意味もなく苛立つようになり、

 

結局親友や恋人が離れていった。

 

その後は長崎に戻って、

 

部屋に閉じこもったわけだが、

 

この頃は自分に特別感はなく、

 

むしろ親とさえ会話できないのが、

 

逃げられない現実として、

 

重くのしかかってきており、

 

救いようがないほどに、

 

落ち込んでいったのである。

 

何でもできるはずだと、

 

思い描いている自分と比べ、

 

現実はそれに全然及ばなくて、

 

それとの落差の大きさに、

 

愕然としてしまっていた。

 

こういう風に落ち込み、

 

しまいに絶望感を抱いたのも、

 

自己愛のせいだと言える。

 

ところで私の自己愛は、

 

自分に自信はあるけれど、

 

それは私にとっての、

 

困難を乗り越えてきたという、

 

ただそれだけのことで、

 

つまりは形になっていないし、

 

自己満足に過ぎないものだ。

 

それに皆がやっている仕事さえ、

 

実際はまともにできないし、

 

そもそも会話できないのだから、

 

ただの過信になるだろう。

 

結局はまだ自分のことを、

 

大して根拠もないのに、

 

特別なものとして捉えており、

 

それを自覚している一方で、

 

未だに変わっていないので、

 

私の自己愛というのは、

 

いわゆる自己肯定感という、

 

健全なものというよりも、

 

病的だと感じるのである。
 

だから私は何かのきっかけで、

 

また自分を否定することや、

 

傷つけることがあるくらい、

 

まだまだ不安定だと言えて、

 

今は子どもの存在があって、

 

前向きになっている気がする。

 

ちなみに子どもは順調に成長し、

 

少しずつ単語を言うようになり、

 

その姿に喜びを覚える。

 

この前は私が自身を指さし、

 

「誰かな?」と尋ねると、

 

「パパ」ではなくて、

 

「いやっ」と言った。

 

そして、その顔も、

 

少しいじわるそうな微笑みで、

 

からかっているみたいだが、

 

その顔がまた可愛らしく、

 

「なんで嫌なんだよ」

 

とじゃれ合っていた。

 

それを見た妻が、

 

「ホント好きなんだね」

 

とボソッと呟いたけれど、

 

私は好きというよりも、

 

愛おしさを感じている。

 

これが愛情というものか、

 

と私は初めて抱く感情に、

 

嬉しさが込み上げてくるが、

 

やはり愛しているというより、

 

愛されているというのが、

 

私にはしっくりくるのだ。

 

子どもに必要とされていると、

 

私は感じているから、

 

よし、明日も頑張るか、

 

と前向きになれるのだと思う。

 

そして、今は素直に言える。

 

人は1人では生きていけないのだと。