イギリス人は排便中に黄色人種が入ってきても平気。

女性が全裸で部屋に居る時に、黄色人種が入ってきても平気。(白人男性が入ってきたら大騒ぎ)

つまり、黄色人種は人ではなかったのです。

東洋人に対する白人の対応は自然な物だったのです。

絶対的差別主義。

この絶対差別主義の世界を塗り替えたのが日本でした。

今でもビルマの建国記念日には、日本の「軍艦マーチ」「日本陸軍の歩兵の歌」が流れます。

フィリピンの独立記念のポスターにも、日本軍のポスターが貼られます。

インドのオールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像があります。
アジア人の自尊心を守ったのは、日本です。

アラブやアフリカを旅すると、なぜ日本はアラブや、アフリカを解放してくれなかったのだ?
と、真顔で説教されるそうです。
が、日本の発展によって、有色人種差別は無くなりました。
単一民族国家で世界最大の大国が日本であり
有色人種が愚かならば、EU諸国が日本より遙かに小国なのは説明がつきません。
もし日本がなければ朝鮮人は現在も奴隷でしょう。
いや、有色人種は今でも奴隷でしょう。

欧米で有色人種差別はほぼ無くなりましたが、日本人以外への有色人種差別はまだ・・・









>>NAVER にて・・

人は本来、集団の中で生きるものです。
脆弱な個として存在した人間の生物としての術であり
またそれが共生という本質でもあります。
しかし、悲しいかな
これこそが最も人の精神を摩耗するものです。

個人差があるにしろ人と対峙すればエネルギーを消費し
知らず知らず磨り減ることで心は疲れ衰退してしまう。
その時に開放されたい、自由になりたいと
心理的リアクタンスが起きたり

強いストレスに晒されるのではないかと思います。

人と人のあいだと書いて、「人間」とはまったく上手くいったものです。

引き続き命を考察していきます。

今日は個体としての自我を踏まえ科学的アプローチから推察してみます。

約60兆の細胞で出来た有機体の内外には腸内常在菌や皮膚常在菌を始めとする
微生物が細胞数以上に存在します。
ここですでに個体としてでは生命はありえません。

細胞自体も核ではなくて細胞膜がそれぞれに判断し、活動を行っています。
排便のおよそ15%は自らの細胞の死骸で人は常に同じ状態ではありません。
約2千億分の1㌘しかない30億の化学文字の人ゲノム本の中には人類の知らない過去や未来の記憶までも書いてあるそうです。
それ故に多重人格やエイリアンハンド(自分の片手等が別人格を持ち自分に襲いかかる)のような
現象も起きるのかもしれません。

有機体である以上、人体は一つの個体ではなく集合体です。

次に個としての思念について考えてみます。
ザックリと科学的に言えば、感情を含めた思考は単なる脳内での化学反応の花火でしかありません。
個性とは脳内化学反応の傾向による結果に過ぎず
個の成長とは事象の変化に合わせた当然の化学反応であり
またそれらの反応は不一定な上に不安定で個としては捉え難いものです。


自我は物理的な実在として客観的には存在しない、しかし明白に自分の意識を実感する。
それは全て人間の心の中で起きているに過ぎず、存在するのは人間の心のみであるという事では無く
物理的な実体に付帯してそこにあるもの

「自我は実在していない、しかし確かに存在する。」に辿り着き

ここでビアスの言葉を借りれば
「我思うと我思う、故に我ありと我思う」となる様に思います。


自我すら一つではなく、やはり命とは共存の螺旋の内に存在するのでしょうか。

カレンダーも残り一枚になって半分が過ぎようとしています。

今年は3・11で多くの命が亡くなりました。


勤め先では一人が凄惨な事故で亡くなり

二人の方が自ら命を断ってしまいました。


命とは、何でしょうか?

生きてゆく事とはなんでしょうか?

命に対し深く考えてみようと思います。


生命の根幹から考えれば

全ての生命は他の命の可能性を摘みながらでしか生きてはいけません。

命が命でもって繋ぎ止められた螺旋の輪に存在するのを
この保護された環境下と、明日生きていることが当たり前の生活の中で忘れがちですが
常に動物、植物の命を消費して生きている訳です


自分達がここに存在することは先祖から沢山の生命を積み重ね
多くの犠牲の上で存在すると言うことで
自分の存在は自分の命を支えたくれた無数の命の姿であり
それ故に自分の命は自分だけの命ではなくて
犠牲の上で成り立っている命の結晶であると考えます。
それはとても希少な存在であり、業と言う生けるものの責任でもあると思います。