自然災害と日本民族の形成 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

本年、令和六年元旦の一月一日に能登半島に地震があった。

そして八月八日に日向灘で地震があり、同時に台風が襲来し、

さらに九月の二十日前後の数日間、

同じ能登半島を豪雨と河川氾濫と土砂崩れが襲った。

この災害の連鎖の如き状況を目の当たりにして、

地震と台風と豪雨そして火山の爆発と日本民族の形成が不可分である!

と直感した。


まず一月一日の能登半島地震に続いて八月八日十六時四十三分、

日向灘で震度六弱(マグニチュード7・1)の地震が発生し、

気象庁は同日十九時十五分、

南海トラフ地震臨時情報即ち「巨大地震注意」を発表して、

「南海トラフ地震防災対策推進地域」に対し、

今後一週間、直ちに避難できる態勢をとるよう呼びかけた。

南海トラフとは、

我が日本列島の地底に北から張り出している大陸のユーラシアプレートの下に、

南からフィリピンプレートが沈み込んでできた海底を東西に走る溝(トラフ)である。

その西端は日向灘で東端は駿河湾だ。

さらに、

我が日本列島北部の地底には大陸の北米プレートがあり、

そこに海洋の太平洋プレートが沈み込んでトラフを造っている。

即ち、

地球上の陸地面積の0・25%しかない日本列島の地下には、

大陸のユーラシアプレートと北米プレート、

南の海洋のフィリピンプレートと太平洋プレートという

合計四本のプレートがぶつかって地震を起こしてきた。

国土の下に

このような四本のプレートがひしめき合っている国は、

地球上に日本以外存在しない。

従って、

「首都直下型地震」は、東京では起こるが、

ワシントンやニューヨークそしてロンドンやパリさらにベルリンやモスクワでは

絶対起こらない。

何故なら、その地下にプレートがないからである。

次ぎに、台風10号は、

八月二十二日にマリアナ諸島で発生し、

当初はまっすぐ北上して硫黄島・小笠原から関東・東海を、

戦時下のアメリカ軍B29爆撃機の如く直撃すると思っていたが、

突如、進路を変えて

西に一千キロほど迷走しているかのように進み、

屋久島の樹齢三千年を超える弥生杉を倒しながら北上して、

八月二十九日午前八時、鹿児島県薩摩川内市に上陸するや、

今度は東に向かって脱兎の如く九州から四国を横断して、

九月一日正午、東海沖で熱帯低気圧になった。

この間、九州や中国・近畿そして東海道さらに北日本に

突風と竜巻と共に大量の雨を降らせた。


当初、この台風10号は硫黄島沖から迷走したと思っていたが、

実は、日本列島を九州から縦断するという

秋の台風の「通常の進路」に回帰していたのだ。

つまり、ユーラシア大陸から離れた海上に浮かぶ

生物多様性に富む豊かな日本列島は、

毎年秋に、大陸からの風と海洋からの風が作り出す

「台風の通り道」になる。

同時に、日本列島の地底では、

大陸と海洋の合計四本のプレートが

ひしめき合っているので、常に何処かで地震が起こっている。

さらに、地球上の活火山の一割が

地球の陸地の0.25%しかない日本列島に存在していて、

時々、火山爆発が起こる。

日本民族は、この日本列島で生まれ、

数万年、この日本列島で育ってきた。

つまり、日本民族は、

何万年ものあいだ、

毎年秋に、列島を縦断する台風の被害を

最小限に止める対策を

仲間や近隣と力を合わせて実施するとともに、

何時起こるか知れない地震や火山爆発のもたらす惨害と

この島に生きている者同士で一丸となって闘ってきた。

そして、同時に、日本民族は、

この生物多様性に富む豊かな日本列島で生かされているので、

神々の棲む大地への感謝と

自然への畏敬の念を深く保持してきた。


この中で、人々が、実践してきたことは、

家族や一族はもちろん、

近隣同士、村落同士そして部族同士が相助け合って

大自然の猛威に耐えることによって生き延びるということだ。

即ち、「この日本列島に生きる者」は、

総て同じ屋根の下にいるが如く、

あたかも、一つの家族のように、

助け合って生きのびてきた。

即ち「八紘為宇」は、

この日本の大自然の猛威のなかで、

お互い力を合わせることのなかから、生まれてきたのではなかろうか。

従って、近年、発掘によって明らかになってきた

日本列島における一万五千年に及ぶ縄文時代の人々の

定住集落の、まさに「世界的な特色」は、

集落を囲む「防御壁」が存在しない!

ということだ。

他方、日本列島以外の欧州そしてユーラシア全域では、

古代から定住集落には必ずそれを囲む「防御壁」が存在する。

この歴史的違いが、

現在に顕れたのが、コロナウイルス対策である。

欧州とユーラシアの国々は、

ことごとく都市封鎖を実施したが、

我が国には都市封鎖の発想はなく、都市封鎖はなかった。

しかし、我が国では、

感染予防の為、

人々の手洗いやマスク着用が広く励行されたので、

日々、人と会うことは、感染の拡大にはならず、

かえって人々の免疫力の獲得につながったのだ。

即ち、我が国では、

都市封鎖しないことによってかえって免疫力が獲得され、

都市封鎖をした国々以上に

国民の対ウイルス抵抗力が強化され

発症防止の実績をあげたのである。

フランスの若いだけが取り柄の生意気な大統領が、

都市封鎖しない我が国を、あざ笑ったが、

我が国は、都市封鎖をしたフランスを

遙かに超える感染抑止の実績をあげた。


次ぎに、現在の日本を形成した

明治維新の起点となった

火山の爆発と地震について記したい。


まず、天明三年(一七八三年)八月三日、

浅間山が大噴火し、

周辺地域の惨状は、地獄も遠く及ばない、

と言われたほどであった。

そして、火山灰は、日本列島をおおうとともに、

偏西風にのって欧州上空に達した。

このため、日本では天明の大飢饉が起こり

九十二万人の人口減少をもたらし、

フランスでは凶作が続き、

これがフランス革命(一七八九年)の切掛となる。


さらに、我が国では、

八十年後の明治維新の前提である

「大政奉還」と「王政復古の大号令」

への道が拓かれたのだ。

浅間山の大噴火の四年後の初夏、即ち大飢饉の真最中、

民衆の苦しみが極限に達した。

その時、

京都御所の築地塀の廻り(一周千三百メートル)を、

歩いて、

天皇がおられる方向に礼拝するように手を合わせて

頭を垂れる人々が現れた。

すると数日後には

一万人の人々が御所にあつまり歩き出した。

そして、

十日後には七万人の人々が御所に集結してきたのだ。

つまり、飢饉で飢えて苦しんでいる民衆は、

幕府を無視し、

神仏にすがるように

天皇に、

窮状からの救済を求めて御所に集まってきたのだ。


この御所に集まって築地塀を回り始めた大群衆の凄さは、

現在の甲子園球場を満杯にした観客の二倍の群衆が、

一度に御所に集まってきた状況を

思い起こせば想像できるであろう。

そして、まさに、この時、

築地塀のなかの光格天皇は、

この静かな大群集の、切なる思いを受けとめられた。

即ち、光格天皇は、

朝廷をして、幕府に対し、

窮民救済を申し入れさせられたのだ。

民衆の数の凄さに、震え上がっていた幕府は、

たまらず、

一千五百石の「救い米」を、民衆に放出した。

即ち、江戸時代の幕藩体制の中で、

この時初めて

天皇の権威が、

幕府の上位にあることが、民衆に明確に示された。

そして、これが八十年後の明治維新における

幕府から天皇への

「大政奉還」即ち日本の「幕藩体制からの脱却」

への道を拓く(藤田 覚著「幕末の天皇」講談社学術文庫)。

そして、

嘉永六年(一八五三年)七月の浦賀へのペリー来航の

翌年に、

全国で地震が連続し始める。

七月の伊賀上野地震、

十二月の安政東海地震

そして安政南海地震と豊予海峡地震があり、

その翌年には十一月の遠州灘地震

そして水戸学の泰斗藤田東湖が圧死した安政江戸地震は、

まさに、

幕末の始まりを告げる天変地異となった。

そうであるならば、

最近の阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震

そして令和六年一月一日の能登半島地震、

さらに八月の日向灘地震、

そして九月二十一・二十二日の

能登半島の豪雨と河川氾濫と崖崩れは、何だ?!

これこそ、

「幕藩体制の如き戦後体制」からの脱却、

即ち、

「占領中に公布された日本国憲法と題する文書」の廃棄による

「本来の日本への回帰」を促す

地震と天と大地の怒りではないか。

従って、仮に、

現在の永田町に生きる者達の生息状況が、

依然として続くならば、

今度は!

富士山が爆発するぞ!!

と申しておく。


☆本稿は、月刊日本10月号に掲載した原稿に加筆した


西村眞悟時事通信FBより

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