「日本の星の時間」
十九世紀後半に、
オーストリアの裕福な家に生まれたユダヤ系作家
シュテファン・ツブァイク(1881~1942年2月22日)は、
ビザンチンやコンスタンチノープルの陥落
ワーテルローの戦い、また、太平洋の発見や
ドストエフスキーが死刑を免れた瞬間
そしてレーニンの封印列車、
などの「歴史的な決定的瞬間」を
「人類の星の時間」と名付けた本を書いた。
ツブァイクは、
一つの天才精神が生きると、
その精神は多くの時代を超えて生きつづける。
そして、
避雷針の尖端に大気全体の電気が集中するように、
多くの事象の計り知れない充満が短い瞬時のなかに集積されるとした。
そして、彼は、
ヨーロッパのなかのことに関心を限定させながら、
ナチスのユダヤ人排斥でオーストリアからの亡命を余儀なくされてブラジルに渡り、
日本軍が、イギリスの三百年にわたるアジア支配の牙城である
シンガポールを陥落させたことを知った七日後に、
ブラジルでヨーロッパの前途に悲観し
睡眠薬を過剰摂取して、妻と共に自殺した。
このツブァイクは、
明治維新で世界史に参入した日本の歩みと、
日本が造りだした第二次世界大戦後の世界を観なかった。
従って、
日露戦争におけるロシア軍を打倒した日本軍の戦いや、
大東亜戦争において日本が掲げた国家目標である
人種差別撤廃や欧米の植民地解放を掲げた
「帝国政府声明」や「大東亜共同宣言」を知らない。
しかし、
彼が「人類の星の時間」と呼んだ
「一つの精神が時代を超えて生きること」
「偉大な精神が避雷針の尖端に全大気の電気を瞬時に集積されること」は、
我が国の近現代史のなかにこそ、よく見いだしうることである。
我が国の歴史は、
静かな、また劇的な「人類の星の時間」の連続である。
よって、以下、そのことを記す。
まず、「日本の誕生」は「人類の星の時間」である。
「橿原建都の令 ― 八紘為宇の詔」
を発せられた初代神武天皇は、
大和国橿原に都を定められ、
まず、民を「おほみたから」と呼ばれた。
そして、次の通り宣言された。
「義必ず時に随(したが)ふ。苟(いやしく)も民に利有らば、
何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。
八紘を掩ひて宇と為む」と。
即ち、
「国民の利益となる福祉の向上こそ私の任務である。」
そして、
「我が国を、一つの屋根の下の一つの家族のような国にしよう」と。
また、古代の第十六代仁徳天皇は、
ある時、
今の大阪市中央区高津付近の高殿から民の家々を眺められた。
そして、民の竈から煙が上がっていないのを知り、
三年間、租税を免除された。
そして、三年後に、
民の竈から煙が国中に満ちるように上がっているのを眺められ、
「我、既に富めり」と喜ばれた。
すると、横にいた皇后が、天皇に言われた。
「貴方の着物はボロボロで、
私たちが住む宮殿は壁が壊れ屋根は破れ、
風が吹き抜け雨が漏れるのに、
何故、豊になったと言われるのですか?」と。
天皇は次のように答えられた。
其れ天の君を立つることは、
是百姓(おほみたから)の為なり。
然らば則ち君は百姓を以て本となす。
是を以て古の聖王(ひじりのきみ)は、
一人も飢え寒(こごえ)れば顧みて身を責む。
今百姓貧しきは即ち朕が貧しきなり。
百姓富めるは即ち朕が富めるなり。
未だ百姓富みて朕の貧しきこと有らず。
この詔が発せられた時、
これまさに、
「人類の星の時間」ではないか。
さらに、神武御創業から二千五百二十八年後の
明治元年三月十四日、
若き明治天皇は、
「五箇条の御誓文」とともに発せられた
「國威宣布の宸翰」において、次の通り言われた。
今般朝政一新の時にあたり、
天下億兆、一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば、
今日の事、
朕、自ら身骨を労し心志を苦しめ、艱難の先に立、
古列祖の盡させ給ひし蹟を履み、治績を勤めてこそ、
始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かさるへし。
以上の
神武天皇に続く仁徳天皇の御言葉と
二千数百年の時空を隔てて発せられた
明治天皇の御言葉は、
世界政治史上、
「天皇のしらす國」である日本でしか発し得ない言葉であり、
我が国の萬世一系の天皇が保持されているツブァイクのいう
「一つの精神が時代を超えて生きる」
尊い証である。
次ぎに、
この萬世一系の天皇と家族の如く一体である
日本国民(臣民)の
「時代を超えて生きる精神」は、
「尊皇」であり「七生報国」である。
その実例は建武三年(一三三六年)五月二十五日の湊川だ。
雲霞の如き足利軍に対する数度の突撃を経て、
湊川にて一息ついた時、
戦場のプロである楠正成は、
鎧を脱いで自分の身体の数個の深い傷を点検した。
そして、これでは、
出血によりあと、数刻で動けなくなると悟った。
そこで、正成は、弟の正季を見て言った。
即ち太平記、
「正成、舎弟の正季に向かって・・・
九界の間に何か御辺の願いなる、と問いければ、
正季、からからとうち笑うて、
七生まで、ただ人間に生まれて、
朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ、
と申しければ、
正成、よに嬉しげなる気色にて・・・
われもかやうに思ふなり。
いざさらば、同じく生を替えて、この本懐を達せん、
と契って、兄弟ともに刺し違へ、同じ枕に臥にけり」
さらに、
楠正成に先立つこと
六十二年前の文永十一年(一二七四年)十月五日、
突如、対馬の小茂田浜に上陸してきた数千の蒙古軍に対して、
対馬守護代宗資国(六十八歳)以下八十余騎は、
弓での勇戦によって、敵に多大な出血を与えて矢が尽きた後、
敵に向かって微笑みながら突撃して玉砕した。
元軍の大将忻都(キンドゥ)は、
「自分は色々な国の敵と戦ってきたが、
こんな恐ろしい敵に会ったのは初めてだ」と言った。
熱心に戦史を研究した楠正成が、
六十二年前の未曾有の國難、元寇における
対馬の宗資國の戦いを知らないはずはない。
対馬の宗資國ら八十余騎の、
蒙古軍に対する微笑みながらの突撃と玉砕、
そして、
湊川での楠正成と弟正季等の自決は、
「日本の星の時間」である。
そして、以後、
日本民族のなかに、
楠正成は、甦り始める。
まず、正成没後三百三十年の元禄五年(一六九二年)、
徳川光圀公が正成自決の地湊川に
「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた(湊川建碑)。
するとこの墓碑は直ちに山陽道の名所の一つになり、
山陽道を上り下りする人々は
この墓碑を仰いで往来するようになった。
そして、十年後の元禄十五年、
大石内蔵助ら赤穂の四十七士が吉良邸に討ち入って
吉良上野介の首を討ち取った時、
誰からともなく、
楠の いま大石と なりにけり なほも朽ちせぬ 忠孝をなす
という歌が民衆に広がった。
吉良家は徳川時代に足利家の正統を保っていた家だったからだ。
その湊川建碑から百五十年が経った時、
幕末の志士たちは、続々と湊川の碑に参拝をして涙を流した。
西郷隆盛も有馬新七も訪れた。
吉田松陰は三回訪れて泣いた。
そして、明治維新直後、
明治天皇は、太政官布告で
「豊太閤(豊臣秀吉)と楠中将(楠正成)」の名誉を回復され、
明治元年四月二十一日、
湊川神社の創建をお命じになった。
さらに明治元年十一月五日、
明治天皇は
「故大石良雄等を追賞し給ふの勅宣」
を発せられた。
汝良雄等、
固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。
百世の下、
人をして感奮興起せしむ。
朕、深く嘉賞す。
今東京に幸(みゆき)す。
因りて使権辨事藤原獻を遣し、
汝等の墓を弔はしめ、且つ金幣を賜ふ。
宣す。
明治大帝、
よくぞ、大石良雄ら赤穂の四十七士を
お褒め戴き、さらにお慰めいただきました。
我が国の歴史において、
大石内蔵助ら赤穂四十七士の吉良邸討ち入りは、
「民族の星の時間」になりました。
同時に、
我が国が参入した国際情勢のなかで勃発した日清日露の戦争から
第一次世界大戦と大東亜戦争を戦い続けた日本民族のなかで、
楠正成を思うことなく戦場に向かった人は皆無であっただろう。
日露戦争勃発直後の明治三十七年三月二十七日、
アジアにおけるロシア海軍の牙城
旅順港閉塞作戦の指揮を執って旅順要塞東海上に赴き戦死した
広瀬武夫中佐は、
「七生報国」と大書して死地に赴いた。
また、世界戦史上最大の陸上決戦となり、
日本軍兵士一万六五五三名が戦死した
明治三十八年三月一日~十日の奉天大会戦において、
無数の戦死した兵士の屍が
黄塵のなかに横たわる新戦場の視察を命じられた
大山総司令官の副官である川上大尉は、
視察途上で少尉候補生時代の教官である石光真清少佐に出会い
次のように語った(石光真清の手記)。
いつも戦線を廻って感じますことは、
このような戦闘は、
命令や督戦ではできないということです。
命令されなくとも、
教えられなくても、
兵士の一人一人が、
勝たなければ国が亡びるということを
はっきり知って、
自分で死地に赴いております。
この勝利は、天佑でもなく、陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります・・・
さよう考えることは、
教官殿、けしからぬことでしょうか・・・。
この川上大尉が観た
黄塵に半ば埋もれて戦闘姿勢のまま斃れている兵士は、
自らの決意に基づいて死地に赴いたのだ。
彼ら一人一人の心に、
「湊川の楠正成の七生報国」が
湧き上がっていたのだ、と私は思う。
そして!
これから深刻さを増す我が国を取り巻く国際情勢の中で、
七生報国、
即ち、
楠正成の甦りは、必至である!
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