陸軍中野学校と真の日本 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

平成十一年(一九九九年)三月二十四日、午前〇時五〇分、 

日本国民を拉致して能登半島沖を北朝鮮に向かって逃走している北朝鮮の工作船に対し、

防衛大臣は、内閣総理大臣の承認を得て、

防衛出動に次ぐ高度の緊急事態対処命令である

「海上警備行動」を発令した。

この命令に基づき、イージス艦「みょうこう」は、

時速三〇ノットの猛烈な速度で北に向かう

不審船の追跡を開始し、

停船させるために同船の周辺に

一二七ミリ炸裂砲弾を連続発射した。

すると、北朝鮮工作船は、洋上に停船した。

しかし、突如、再び動き始め、

遂に北朝鮮領海内に逃げ込んでいった。

つまり、

イージス艦「みょうこう」には、

停船した北朝鮮工作船内に直ちに突入し、

そこにいる工作員を制圧し、

拉致されている日本人を救出する為の、

防弾チョッキと拳銃などの装備と、

格闘技術に習熟した人員がいなかったのだ。


この時、三十四歳で「みょうこう」の航海長であった

伊藤祐靖氏(以下、敬称略)は、

この無念の体験を切掛けにして、

戦後日本で初めての

特殊部隊「特別警備隊」の創設(平成十三年・二〇〇一年)

に参画し、

自ら「特別警備隊」で特殊戦の研鑽を続け、

この特殊戦の世界で生きようと決意した。

しかし、海上自衛隊は、

伊藤に通常の艦隊勤務への人事異動を発令した。

そこで、伊藤は、

四十二歳の二等海佐(海軍中佐)で自衛隊を退官し、

以後、フィリピンのミンダナオに拠点を移して

特殊戦の技術を磨き続ける。


そして、伊藤は、この度、

昨令和四年に、九十五歳で亡くなった

父親伊藤均の思想と生き様を書いた本を出版した。

その表題は、

「陸軍中野学校外伝 蒋介石暗殺命令を受けた男」。

角川春樹事務所出版。


伊藤は、父の生き様が、

「日本という国」と「日本人の道」を顕かにして、

自分の生き方に大きな影響を与えた、

と直感したのだ。


父は、昭和十九年、陸軍中野学校生徒の時、

教官から「蒋介石暗殺」を命令された。

その時、教官は、

「出撃の期日については決まっていない。

おって指示する。準備に万全を期せ」

と付け加えた。


そこで、伊藤均は、

戦前戦後一貫して、蒋介石暗殺の訓練を続ける。

昭和三十九年生まれの伊藤祐靖は、

四歳の頃から小学校五年になるまでの約六年間、

毎週日曜日の午後、

エアーポンプ式ライフル(空気銃)を持つ父均と共に

近所の廃墟に行った。

息子の祐靖の役割は、

廃墟の外壁にある垂直階段を上がり、

二階の手すりにたこ糸をくくりつけ、

地面に降りて、

そのたこ糸の先端に拳大の石をくくりつけて、

それを揺らすことであった。

父均は、二十五メートル離れたところから

ライフルを立射の姿勢で構えていて、

たこ糸を狙って毎回二発しか撃たなかった。

従って、祐靖は、

六年間で六百発以上、父の射撃を見ていたことになる。

そして、息子は言う。

「父は、ただの一発もはずしたことがない」と。


五歳の時、祐靖は父に質問した。

「お父さんは、鉄砲が上手だね。お仕事なの?」

「いや、本番では銃は使わん。

わしの専門は爆殺と毒殺だからな・・・」

「爆殺・・・?じゃあなんで鉄砲の練習してんの?」

「今!という勘を鈍らせないためにやっているんだよ。

・・・わしはな、

戦争中にある人の暗殺命令を受けてな・・・。

それがまだ、解除になってないんだよ。

夕方電話がかかってきて、

明日行けって言われたら困るだろう」

「えええ。暗殺命令?

戦争って、僕が生まれるずっと前に終わったんじゃないの」

「あのな、戦というものは、

どうしても譲れないものがあるからするものなんだよ。

だからそれを取り戻すまでは、

止めないんだ。

止めたふりも、負けたふりもするけどな・・・」


結局、伊藤均は、

蒋介石が昭和五十年四月五日に死去するまで、

この訓練を止めなかった。

また、この伊藤均が、亡くなるまで、

尊いものとして信奉していたものは、

天皇の「詔(みことのり)」であり、

決して「日本国憲法」ではない。


そこで、伊藤均の次ぎに、

戦後も任務を遂行したもう一人の陸軍中野学校出身者である

小野田寛郎少尉に注目したい。

小野田は、残置諜者そして遊撃指揮の任務を与えられ

フィリピン防衛の第十四方面軍隷下の

第八師団の師団長から、直接、

「玉砕はまかりならぬ。三年でも五年でも頑張れ」

との命令を受けて

フィリピンのルバング島に

昭和十九年十二月三十一日に着任し、

それから、

昭和四十九年三月九日に、

元上官の谷口義夫少佐から

現地ルバング島で任務解除命令を伝達されて、

フィリピン軍司令官に軍刀を渡して降伏するまで、

ルバング島で三十年間戦い続けた。

そして三月十二日に帰国した。


この孤独なルバング島での三十年間の任務遂行の日々、

小野田寛郎は遙か北方の日本を思い、

楠正成が元弘元年(一三三一年)、

後醍醐天皇に笠置山に召されて申し上げた次の言葉を、

繰り返していたのであろうか!


「正成一人生きてありと聞し召し候はば、

聖運つひに開かれるべしと思し召し候へ」。


よって、世界中が、小野田帰国のニュースに湧く中で、

小野田は、帰国に際して

「天皇陛下、萬歳」と叫んだのだ。

そして、小野田は、

日本政府から支給された百万円の見舞金と

国民から集められた義援金を、

靖國神社に寄付した。

明らかに小野田は、

当然の任務を遂行した帝国陸軍士官のまま、

「戦後日本」に帰国した。

また、伊藤均も、

任務解除命令を受けるまで三十年間戦い続けた

小野田の生き方を、

当然のことと息子の祐靖に語った。


そして、小野田は、帰国した「戦後日本」が、

戦争をしてまで守ろうとした国では

なくなっているのを実感して、

兄を頼って「戦後日本」から脱出して

ブラジルに出て行った。


では、

伊藤均や小野田寛郎の「日本」と

「戦後日本」の

どちらが「真の日本」なのか。


「真の日本」とは萬世一系の天皇を戴き、

その詔を尊重することを

邦家萬古の伝統として尊ぶ日本である。

そして、

「戦後日本」とは、

敗戦後の日本を軍事占領した連合軍が、

日本の主権を剥奪したうで、

邦家萬古の伝統を否定し、

戦争を放棄し、

陸海空軍の保持を禁じた「日本国憲法」と題する文書を

「日本の憲法」とした被占領国である。


そこで、伊藤均や小野田寛郎と同じく、

戦後もこの「真の日本」を支えとして生き抜いた

日本人青年群像を、さらに思い浮かべたい。

それは、八紘為宇の志を抱いて、

戦時中にユーラシアの

蒙(モンゴル)、蔵(チベット)そして回(ウイグル)の

中国外縁部各所に潜入していった青年たちのことだ。

この外縁部に

反共・親日国家群を樹立して

中国共産党と国民党を包囲殲滅することが

帝国陸軍の国家戦略であった。

しかし、日本の敗戦により、

彼らはユーラシアの棄民になった

しかし、木村肥佐生と西川一三は、

チベットからインドへ出て、

昭和二十五年七月、十二年ぶりに帰国し、

直ちに外務省に報告に出かけた。

すると、外務省は、

「その必要なし」と二人を追い返した。

ところが、

アメリカ極東軍対諜報活動局は、

一年近く、彼らを呼び出して、

細かく聴取した。

つまり、

「今の日本」は「国家」ではないのだ。


以上、月刊日本誌出稿原稿より


西村眞悟FBより

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