伊勢の大廟に祈る | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

伊勢の大廟に祈る


十月二十四日、

今日しかないと思い、

数年ぶりにご無沙汰していた伊勢の内宮に参拝した。


五十鈴川を渡り、大鳥居をくぐり、

右手の木々の上にはためく「日の丸」を拝して

砂利道を大廟に向かって歩んでいるとき、

何故か、

昭和二十年八月二十九日、朝、

昭和七年四月二十九日の爆弾によって右足が太ももから欠損し、

右に十キロの義足をつけて大廟を拝するためにこの道を歩んだ

正装の外務大臣重光葵のことがしきりに思われた。


我が国は、昭和二十年八月十四日、

連合国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨伝達した。

翌、十五日、

御聖断による終戦の決定を得た鈴木貫太郎内閣が総辞職し、

十六日、

連合国との降伏文書調印と連合軍の日本進駐等への対処のために

皇族で陸軍大将の東久邇宮に大命が降下され、

重光葵は、その外務大臣を命ぜられた。

その上で、重光葵は、

八月二十七日の閣議において、

陛下の御思召しにより、東久邇宮総理によって、

「日本國天皇陛下及び日本國政府の命に依りまたその名において」

降伏文書に署名することを命ぜられた。

その時のことを重光は「手記」に次のように書いている。

「当時の空気では、

日本開闢以来の不名誉なる文書に氏名を乗ずることは、

政治家としては其終焉を意味し、

軍人としては自決を強いられるものと思われた。」

そして、重光は、翌八月二十八日の夜行に乗り、

「伊勢大廟を拝すべく西下した。」


翌二十九日の朝、山田に着いた重光は、

市中の三分の二は跡形もなく焼失している様に、

「沿道皆廃墟」と記した。

そして、宿で斎戒沐浴して外宮より内宮へと参拝したのである。

「手記」に書く。

「日本歴史始まって以来の出来事である降伏文書の調印を前にして、

心を籠めて祈願した。感慨頗る深し。何処もこも緊張していた。

  

我國を造りましたる大神に

      心をこめて我は祈りぬ 」


降伏文書への調印は、九月二日であった。

九月一日、重光は、御召しによって宮中に参内し、

陛下に拝謁して、次の勅語を賜る。


重光は明日大任を帯びて

終戦文書に調印する次第で、

その苦衷は察するに余りあるが、

調印の前後の処理は更に重要なものがあるから、

充分自重せよ。


調印の日の九月二日、午前三時に起床した重光は、

筆を手に取り次の歌二首を記した。


ながらへて甲斐ある命今日はしも 

     しこの御楯と我ならましを


願くは御國の末の榮え行き

     吾が名さげすむ人の多きを


以上、重光葵のことを記してきたのは、

私自身が伊勢の大廟を拝する為に歩いている途次、

また参拝を終えて退出するなかで、

何故か、しきりに、重光のことを思ったからだ。

では、

しきりに、重光が出てきたのは何故だ?!

その訳は、現在の日本も、

重光の時と同様の、

「日本が日本でなくなる危機」

に直面しているからではなかろうか。


我らが、生きている「戦後日本」は、

重光葵の「降伏文書調印」から生み出された。

この「降伏文書調印」によって連合軍が日本に進駐して

日本を占領統治するなかで「日本国憲法」を書いた。

そして、我らは、

我が国を占領している連合軍が書いた「日本国憲法」を

「日本の憲法」と思っている。

しかし、

国土と国民を守る為の軍隊を持たず、

国の交戦権も認めないとする「日本国憲法」の下で、

多くの国民は北朝鮮に拉致されたまま救出できず、

国土は韓国に盗られたままだ。

そして、今!

我が国を取り巻くさらに厳しい内外の情勢のなかで、

これ以上、

「日本国憲法」を「日本の憲法」と思い込んだままなら、

確実に「日本は亡びる」


よって、重光は、

降伏文書調印の日の早朝に書いた歌の通り、

現在に生きる我らに、

降伏文書に調印して、

占領軍が「日本国憲法」を書く道を拓いて

現在の亡国の危機を生み出したのは俺だぞ!

もっと、日本人なら、

「俺の名をさげずめ!」

そして、占領軍が占領中に書いた「日本国憲法」を

「日本の憲法だと思うな!」

と訴えているのだ!


二十四日、

伊勢の大廟に参拝して退出する途次、

「荒祭宮・あらまつりのみや」

に参拝した私西村は、

皇国、日本の真の憲法の回復のために、

「あばれます!あばれさしてください!」

と念じ、祈った。


西村眞悟FBより

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