「戦後日本の前提」とは何か。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

今、既に、「日本国憲法」は存在しない!!


安倍晋三が、令和四年七月八日午前十一時三十一分、

奈良の近鉄大和西大寺駅頭で街頭演説中に銃撃され、

同日夕刻、

奈良県立医大病院より死亡を確認した旨の発表があった。


その時、私は、安倍と同じ長州人の伊藤博文が、

明治四十二年十月二十六日、満州のハルビン駅頭で、

同じように銃撃され死亡したことを思い浮かべた。

伊藤も安倍も同じ、享年六十八歳だった。

幕末維新の動乱のなかで

伊藤と同じ死線を潜った長州の同志井上馨は、

伊藤の死の報に接し、

「伊藤は維新の志士のように死んだ」と羨んだ。

その井上は、伊藤の死の六年後、

維新の志士のようには死ねず、

畳の上で七十九歳で亡くなった。


現在、安倍晋三が、維新の志士のように死んでから、

既に一年三箇月が閲している。

よって、ここで、

安倍晋三の祖国日本に対する最大かつ最深の功績を語る。


今まで、マスコミ人や識者は、

「安倍晋三の功績」を語り続けてきた。

しかし、これから語る眞の功績は語られなかった。

何故なら、

それを語れば「戦後日本の前提」が覆り崩壊するからだ。

では、「戦後日本の前提」とは何か。

それは、我が国に国家主権が無い時に、

外国人が書いた「日本国憲法と題する文書」を

日本の憲法と思い込んでいることである。


しかし、安倍晋三の祖国日本に対する最大の功績によって、

既に、「日本国憲法と題する文書」を

日本の憲法と思い込むことができなくなっているのだ。

即ち、我らは、既に、

「日本を取り戻す」ことができる次元に立っている。

それは、

日本に主権が無い時に、奪われた

帝国陸海軍つまり軍隊を取りもどし、

大日本帝国憲法と皇室典範を取りもどし、

押しつけられた

日本国憲法を廃棄することである。

これが、安倍晋三の最大の功績でなくて何であろうか。

平成二十四年暮れの総選挙において、

安倍晋三は、

「日本を取り戻す」

そして

「戦後体制からの脱却」というスローガンを掲げて戦い、

国民の賛同を集めて勝利して政権に復帰した。

そうえで、平成二十五年に入って迎えた四月二十八日に、

総理大臣安倍晋三は、

憲政記念館において政府主催の「主権回復を祝う会」を、

天皇皇后両陛下の御臨席を得て開催したのだ。

この開会の挨拶に立った総理大臣安倍晋三は、

昭和二十年九月二日の降伏文書調印によって

連合国の占領下に入った我が国の国民に対して、

昭和天皇が歌われた御製


ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ

松ぞををしき人もかくあれ


を朗唱した。

その時、

安倍晋三の声は、込み上げる嗚咽に震えた。


日本が英米をはじめとする四十八カ国の連合国と締結した

サンフランシスコ講和条約は、

昭和二十六年九月八日に調印され、

各国の批准を経て同二十七年四月二十八日発効した。

そして、条約第一条に基づき、

この日、

日本と連合国との間の戦争状態は終了し、

日本国民は完全な主権を回復した。

よって、安倍晋三は、平成二十五年四月二十八日、

日本国内閣総理大臣として、

我が国の「主権回復を祝う会」を開催し、

「日本を取り戻す」ため

「戦後体制から脱却する」ための扉を、

開いたのだ。


言うまでもなく、我が国政府が、公式に、

昭和二十七年四月二十八日の主権回復を祝うということは、

我が国には、

昭和二十年九月二日の降伏文書調印から

同二十七年四月二十八日の講和条約発効までの間、

国家主権が無かったことを明確に確認したということである。

従って、我が国に国家主権が無い

昭和二十一年十一月三日に公布され

翌二十二年五月三日に施行された

「日本国憲法と題する文書」は、

我が国の憲法として無効であることが公的に確認されたのだ。

これが、総理大臣安倍晋三の祖国日本に対する功績である。

そして、この「主権回復を祝う会」の閉会に当たり、

天皇皇后両陛下が会場の憲政記念館からご退席になるとき、

会場を満たした全参加者は起立し、

声を限りに、

「天皇陛下萬歳!」を叫んだ。


次に、我が国の「眞の憲法」は、

何処に如何に存在するのかを確認しなければならない。


およそ、憲法を含む「法の存在の仕方」として、

一定の手続きを経て紙に書かれた「法典」

として存在するものと、

「法典」ではないが、

長年の習慣や慣例そして掟(おきて)として実質的に存在するものがある。

憲法においては前者が「成文憲法」で、

後者が「不文の憲法」である。

そして、現在の我が国は、

「成文憲法」の国ではなく、

イギリスと同じく「不文の憲法」の国なのだ。


イギリスは

西暦一〇六六年のウイリアム一世によるノルマン王朝創設以来、

現在まで、九百五十七年間、

四十一人の国王が世襲の王統を継承してきた。

そして、我が国は、

一万年以上続いた縄文期を母体として、

「天照大御神の天壌無窮の神勅」によって生まれた

初代神武天皇による建国から、

二千六百八十三年を経た現陛下に至るまで、

萬世一系、百二十六代の皇統が続いてきている。

前記、憲政記念館からご退席される

天皇陛下を見送る参加者が叫んだ

「天皇陛下萬歳!」は、

日本における

この神秘な皇統継承を可能にしている「不文の憲法」への

畏敬と感謝の叫びではなかったか。


これに対して、

革命で王権を断絶させたフランスの例を挙げれば、

一七九一年の成文憲法制定から

一九五八年の第五共和制憲法(ド・ゴール憲法)に至るまで、

敗戦やクーデターや革命による流血と殺戮のなかで

王政憲法や共和制憲法が繰り返し現れては廃棄され、

成文憲法の総数は十五本を超えている。

さらに、このフランスの例に加えて、

ロシアは革命により、

ドイツ、オーストリア、イタリアは敗戦により、

その古き良き国の歴史を閉じてきた。


この欧州諸国の例に比べれば、

同じ欧州にありながら「不文の憲法」のもとで、

九百五十七年間、世襲の王統が守られ現在に至る

イギリスの安定性は特筆されるべきである。

まして、我が国の

「天照大御神の天壌無窮の神勅」

による神武天皇を初代とする

萬世一系の天皇は、

太古から、古墳時代、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸時代を経て現在に至るまで

二千六百八十三年間、百二十六代にわたっている。


このこと、世界の諸民族の興亡と盛衰の歴史の中で、

現に日本においてだけ、奇跡の如く起こっている。

我々日本人は、

この奇跡の如き恩恵をもたらした

我が国の「不文の憲法」の尊さありがたさを

噛みしめねばならない。


そこで最後に、

同じ「不文の憲法」の国であるイギリスと我が国との、

大きな違いをもたらしている

「不文の憲法の法源の違い」

を指摘して本稿を終えたい。

イギリスの不文の憲法の法源の中核は

マグナ・カルタ(一二一五年)で、

これは国王ジョンに対する貴族の権利要求である。

これに対して、

我が国の不文の憲法の中核は

「天照大御神の天壌無窮の神勅」である。

この違いをもたらしているものを、

フランスの社会人類学者

クロード・レブィ=ストロース(一九〇八~二〇〇九年)は、


「われわれ西洋人にとっては、

神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。

日本の最大の魅力の一つは、

これとは反対に、

そこでは誰もが

歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられる

という点にあるのだ。」


と指摘している。


(本稿は、「維新と興亜」誌への出稿原稿に加筆したもの)


西村眞悟FBより

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