八月十五日が迫る時、
次の通り、
記しておきたい。
我が国の歴史的なポツダム宣言受諾の通告は、
昭和二十年八月十四日午後十一時、連合国に対して打電され、
「終戦の大詔」は、
翌十五日正午、玉音をもって全国に放送された。
この終戦の詔勅について、
時の内閣総理大臣鈴木貫太郎は、
次のように記している(鈴木 一編「鈴木貫太郎自伝」)。
「その内容は,ほとんど二回にわたる御前会議における
陛下のご発言を
そのまま内容とし、これを字句の上から修正したものであって、
閣議で議論数時間にわたった要点は、
いかにこの陛下のご聖慮を
正しく反映させるかに終始したものである。」
まことに、「大東亜戦争終結の詔書」は、
陛下の御前会議における御発言を、
そのまま内容としたものである。
一部で、漢学者の誰々が書いたと訳知り顔に言はれるが、
これは虚偽だ。
「終戦の大詔」は、
陛下の御発言そのものである。
陛下の御発言そのものでなければ、
つまり、その場にいない漢学者の文章ならば、
閣議においても御前会議においても、
一貫して強硬に終戦に反対してきた
陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将が、
陸軍大臣として詔書に副書するはずがない。
陛下のポツダム宣言受諾の御聖断を以て締めくくられた
最後の御前会議終了に際して、
陛下に取りすがるように慟哭した陸軍大臣阿南惟幾に対して、
陛下は、直接、
「阿南、阿南、私には國體を護持できる確信がある」
と言われた(藤田尚徳著「侍従長の回想」)。
その陛下の御言葉が、
詔書にそのまま記されている。
「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ」と。
よって、
阿南大臣は詔書に副書したのだ。
そして、連合国へのポツダム宣言受諾の通告後の
日付が十五日に変わる前、
阿南陸軍大臣は、
総理大臣室を訪れ鈴木貫太郎総理に最後の挨拶をした。
その時、総理大臣室にいた迫水久常内閣書記官長は、
十年後、その時の状況を次のように語っている。
「阿南陸軍大臣は軍帽を持って刀をつってはいってこられた。
そして、この数日来、私が申し上げたことは、
総理大臣閣下に対し非常なご迷惑をお掛けしたことと存じまずが、
私の本旨といたしますところは、
ただ皇室のご安泰を祈ること以外になにものもございません、
どうぞご了解をお願いします、と言われた。
すると鈴木総理は、阿南大將のそばに寄られ、
大將の肩に手をかけて、
陸軍大臣、あなたの心持ちは
私が一番よく知っているつもりです。
とまずこう言われました。
そして、さらに続けて言われたのです。
私は、この鈴木総理のお言葉の意味が、
ほんとうによく解らないような気もするのでございますし、
同時に非常によく解るような気もするのでございますけれども、
鈴木総理はこういわれたのです。
阿南さん、皇室はご安泰ですよ、
なんとなれば、
今の陛下は春秋におけるご先祖のお祀りを、
必ずご自身で熱心になさる方でございますから、
こういわれました。
阿南大臣はそれをお聞きになりますと、
両方のほおにずっと涙を流されまして、
私も固くそう信じます、
と言われて
礼をされまして、
静かに部屋をでていかれたのであります。」
それから、永田町の陸軍大臣公邸に戻った阿南は、
紙に
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉る
昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾」
と墨書した。
そして、八月十五日未明、
阿南は、皇居に向かって座し、刀を腹に突き立てた。
すると、阿南の心に
陛下にお告げしたい最後の思いが強く湧き上がった。
それは、六時間後に迫った十五日正午、
陛下が全国民に告げられる詔書に記された
「確ク神州ノ不滅ヲ信シ」
という陛下の思いに、
臣下として応じる最後の一言を遺したいということであった。
更に、昭和十三年に師団長として戦線に赴く時に、
陛下が自分と二人きりで食事をしてくださった感激を謳った歌を
辞世として書き記すことだった。
よって、阿南は血だらけの手で遺書に
「神州不滅ヲ確信シツゝ」
と書き加えたのだ。
そして、辞世として
「大君の深き恵みにあみし身は 言ひ遺すべき片言もなし」
と書いた。
まさに、阿南の遺書は、
戦場で斃れた兵士が血を流しながら書いた遺書と同じである。
靖國神社に保管されている阿南の遺書は血だらけである。
陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将、
八月十五日午前五時半自刃、
午前七時十分絶命、
検視、陸軍省衛生課長山月三郎大佐。
介錯の痕跡無し。
陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将の自刃は、
十五日正午の玉音放送と共に全陸軍に知れ渡り、
全陸軍将兵に対する強烈で厳粛なる「終戦の告示」となった。
その夕べ、
阿南の遺体は市ヶ谷台の陸軍省に移され
野戦法式によって荼毘に付された。
十六日午前六時、陸軍省将校集会所において陸軍葬。
前記、迫水久常は、後年
「私は、日本の終戦の最大の功労者は鈴木貫太郎大將と
阿南惟幾陸軍大臣であることを堅く信じておるものであります」と語った。
そこで、この八月十五日正午に
「大東亜戦争終結の詔書」を玉音放送によって伝達された国民は
如何にしていたのであろうか。
その状況を八月十六日の朝日新聞は
次のように伝えている(江藤 淳著「忘れたこと、忘れさせられたこと」より)。
その見出しは、
「二重橋前に赤子の群れ」、
「立ち上がる日本民族」、
「苦難突破の民草の声」。
「静かなやうでありながら、そこには嵐があった。国民の激しい嵐であった。
広場の柵をつかまへて泣き叫んでいる少女があった。
日本人である。みんな日本人である。
泣けるのは当然である。群集のなかから歌声が流れはじめた。
「海ゆかば」の歌である。
一人が歌い始めると、すべての者が泣きじゃくりながらこれに唱和した。
またちがった歌声が右の方から起こった。「君が代」である。
歌はまたみんなに唱和された。
あゝ、天皇陛下のお耳に届き参らせたであろうか。
天皇陛下、御許しください。天皇陛下!
悲痛な叫びがあちこちから聞こえた。
一人の青年が立ち上がって、「天皇陛下萬歳」と
あらんかぎりの声をふりしぼって奉唱した。
群集の後ろの方でまた「天皇陛下萬歳」の声が起こった。将校と学生であった。
あすもあさっても「海ゆかば」は歌ひつゞけられるであらう。
民族の声である。
大御心を奉戴し、苦難の生活に突進せんとする民草の声である。
日本民族は敗れはしなかった。」
この朝日新聞記者は、二重橋前の日本人の一群をみて
「日本民族は敗れはしなかった」と総括した。
しかし、この記者も民衆も、
十五日後の八月三十日に厚木に降り立つ
D・マッカーサー率いるアメリカの占領軍が、
「日本民族」を抹殺するために
「民族の記憶と誇りを失わせる戦争」
を開始したことに気付かなかった。
即ち、占領軍は
検閲によって日本民族の言論を奪い、
戦犯処刑と公職追放とWGIP(War Guilt Infomation Program)によって罪悪感を与え、
「日本国憲法」を押しつけて無力化を計った。
その結果、日本民族は、
この「武器を使わない戦争」で敗北したのだ。
よって、現在に生きる我らの使命は、
この「敗戦」を克服することである。
その方策は、歴史を取りもどし、
我が国が昭和十六年十二月八日に発した「帝国政府声明」と
同十八年十一月六日に発した「大東亜共同宣言」に掲げた
欧米諸国による
「植民地支配からの解放」と「人種差別撤廃」
という戦争目的が、
世界において実現されていることを確認し、
英霊を追悼するのみではなく、
その栄誉を讃えなければならない。
そのうえで、
天皇陛下の靖國神社への御親拝を戴くことである。
以上、「維新と興亞」誌への出稿原稿に加筆した。
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