戦後行政の歴史抹消習性から「国民の記憶」を守れ
七月七日午後、堺の自宅を出発し
名神高速から中央道を五時間走って
長野県下伊那郡下條村の天竜川源流域にある宿に入り、
翌八日午前十時から始まる
天竜川を少し下った阿南町に建てられた
安倍晋三神社創設式に参列し、
その式の後、参列者に
私に西村は、安倍晋三君の最大の功績である
「戦後体制から脱却」し「日本を取り戻す」為に何をしたのかを語り、
次に同行の石平さんが、
安倍晋三君の国際政治、特に中共の習近平対する巨大な存在感を語った。
この安倍晋三神社は、
旧知の吉野の吉水神社宮司の佐藤素心師が、
吉水神社を離れて移住した天竜川流域の阿南町で
昨年七月八日の安倍晋三遭難を知って一念発起して建立した。
その神社には、
彫刻家の池川 直師が制作した
大地に跪いて合掌する安倍晋三さんのブロンズ像が安置されている。
この安倍神社からの帰路、同行の石平さんと、
安倍晋三さんの銃撃された西大寺駅前で合掌しようと決めて
一路、奈良の西大寺駅に走った。
しかし、到着した西大寺駅前の風景は、
工事によって、一年前とは全く違っていた。
そして、駅前の車道に面した歩道の二箇所のコーナーに花壇があったが、
どちらの花壇が安倍さんの銃撃された場所になるのか、
何も表示されていなかった。
それ故、どこに向かって合掌すべきか迷った。
聞くところによると、行政側が安倍さんの銃撃された所に、
それを示す標識を立てるのを取り止めたという。
西大寺駅近くに自宅がある石平さんと別れ、
堺に向かって生駒山を西に越える途中、
我が国の元総理が街頭演説中に銃撃され死亡した
多くの国民がお参りにくることが予想される場所を
工事によって変容させたにも拘わらず、
特定する印もおかない行政の措置に憤りが湧き上がった。
何故なら、これが日本の「戦後特有の歴史抹消の習性」であるからだ。
安倍晋三君は、
「戦後体制からの脱却」を叫んだ。
そして、今、奈良における人生最後の場所を、
奈良の戦後体制的行政によって抹消されようとしている。
これを許してはならない。
・明治十年九月二十四日、西郷隆盛は城山の西郷洞窟から岩崎谷を六百メートル下った場所で別府晋介に首を討たせて自害した。その地には、石像が建てられ「南洲翁終焉の地」と刻まれている。
・明治十一年五月十四日、維新の元勲大久保利通は、紀尾井坂で刺客に襲われ斬殺された。
その場所には、巨大な石像が建てられている。
・大正十年十一月十四日、総理大臣原敬は、東京駅丸の内南口で刺客により心臓を刺され即死した。その場所の床には、円の中に六角形が描かれたメタルが埋め込まれている。
そして、安倍晋三君は、
去年の七月八日、彼らと同様に戦場の兵士のように銃撃によって死亡した。
奈良の行政は、何故、その場に「元総理大臣安倍晋三終焉之地」と明記できないのか?!
戦後という時代は、即ち、「戦後体制」とは、
・明治天皇の御誕生日である十一月三日から、
明治天皇の記憶を抹消するかのように、明治を消去して「文化の日」とした。
・昭和天皇の御誕生日である四月二十九日から
昭和天皇の記憶を抹消するかのように昭和を消去して「みどりの日」とした。
これらは、国民から「歴史」を奪う巧妙な反日本的工作である。
そのうち、「みどりの日」は、あまりにも露骨だったので、
現在、「昭和の日」に復元されている。
そして、今、光輝ある「明治の日」の復元努力が続いている。
この中に於いて、
我らの瞼に焼き付いている「安倍元総理大臣終焉の地」が
奈良の行政の狡智によって
「何処なのか不明」にされることを阻止しなければならない。