隠れガーシーは「馬鹿」「害虫」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

先に、海外に住んでいる「ガーシー」と名乗る人物が、
選挙で参議院議員に選出され、
海外から帰国することなく一度も国会に登院しないまま、
参議院議員の歳費だけは受け取り続け、
遂に院議によって除名された。
このこと、ゴールデンウィークを経て、既に忘れられつつあるが、
決して忘れてはならない。
それは、「ガーシー」が、
選挙というものは、
必ずしも国家と国民に有用で適切な結果を出すものではない、
という実例であるからだ。

つまり、「ガーシー」は、あの除名された者にとどまらず、
議員の中に「隠れガーシー」がウヨウヨいる可能性がある。
むしろ、本物の「ガーシー」の方がましである。
何故なら、本物の「ガーシー」は、
一見して、これは「パー」だと分かるので害は少ないが、
選挙では、一見賢く見えて、
その実、救いようのない
「馬鹿」とか「害虫」が当選してくることがある。
しかも、二十世紀に人類に惨害を与えたボルシェビキの
レーニン・スターリンに指導された
「コミンテルン日本支部」崩れが、
我が国では今も生息しているので、
このこと、特に注意を要する。

そこで、中選挙区制度から小選挙区制度に変わった
衆議院の総選挙に目を移して点検してみることにする。
中選挙区制度による選挙を一度、
次に小選挙区制度による選挙を六度体験した筆者の
実感を述べるならば、
小選挙区による選挙を経る度に、
衆議院は劣化し続けた。
つまり、選挙の度に、
ちゃっかり時流に迎合する芸能プロダクションの訓練を受けた
サイボーグのような「チルドレン」が生まれたのだ。
そのチルドレン集団を最初は
「幼稚園」と呼んだ。
次の選挙の後では
「キンダーガーデン」と呼んだ。
そして、次の次は遂に
「ネバーランド」となった。
特にひどかったのが
「小泉チルドレン」だ。
今こそ、あの小泉氏が偏執狂の如く叫んでいた構造改革に
迎合して、口調まで小泉氏に似てきた連中が
推進した郵政の民営化が、
日本の為であったのか否か、点検するべきである。
現在進行中の郵便事業の劣化,
甚だしいではないか。
小泉構造改革推進の見本のように眺められていたアメリカは、
郵政事業を決して民営化していない。

さらに、「制度」というものが、
不変である必要はないのであるから、
この選挙の度に劣化してきた当選者がなる国会議員のなかから、
内閣総理大臣が選出されるという制度自体が、
国家の為になるのか否か、
点検する必要がある。
つまり、「日本国憲法と題する文書」は、
その六十七条で
「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、
これを指名する」
と規定している。
しかし、我が国を取り巻く内外の情勢は、まことに厳しく、
もはや「戦後の平和」はない。
従って、
この占領軍であったアメリカが作ったやり方を踏襲し続けていて、
大丈夫かと問わねばならない。
小泉チルドレンや隠れガーシーが、
首相候補になるなど、国家にとって悪夢である。

よって、ここで故安倍晋三氏が、
内閣総理大臣として我らに遺した最大の功績を確認してから論を進めたい。
昭和二十年八月十四日、我が国はポツダム宣言を受諾し、
同年九月二日の我が国の降伏文書調印から同二十七年四月二十七日まで、
我が国は連合国の占領下におかれ主権がなかった。
しかし、翌四月二十八日に、
サンフランシスコ講和条約が発効して我が国は主権を回復した。
そして、六十年後の平成二十四年暮れの総選挙で、
「日本を取り戻す」そして「戦後体制からの脱却」を掲げて
政権に復帰した安倍晋三総理は、
翌平成二十五年四月二十八日に、
憲政記念館において
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、
内閣主催の「主権回復を祝う会」を開催したのだ。
この主権回復を祝う会開催の意義は、
我が国には、
昭和二十年九月二日の降伏文書調印から
同二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約発効日の前日まで
主権が無かったことを公的に明確にしたことである。
従って、論理必然的に、「日本国憲法」は、
我が国に主権が無い被占領下において公布され施行されているので
「日本の憲法」としては無効であることが確認されたのだ。
よって、もはや、
前記「日本国憲法と題する文書の六十七条」によって
内閣総理大臣を選任する必要は毛頭無い、ということだ。

では、我が国は、如何なる規範によって
内閣総理大臣を選び国家を運用すればよいのか。
この問いに対して答えるに当たり、
先ず冒頭指摘すべきは、
我が国ほど太古からの国家の個性と運用に関する豊かな
「不文の憲法」を、
断絶させることなく現在にまで継承してきている国はないということだ。
このこと、我々は、
被占領下で前記「日本国憲法と題する文書」を
「憲法」と思い込まされていたが故に、
見れども見えず、気付かなかっただけである。

我が国と同じ「不文の憲法」の国であるイギリスの
最も重要な規範の法源が「マグナカルタ」であるが、
これは国王ジョンに対する貴族たちの権利宣言で、
西暦一二一五年に発せられたものだ。
つまり、イギリスでは、王と国民を利害対立した存在と位置づけている。
しかし、我が国の最も重要な「不文の憲法」の法源は、
マグナカルタより一千八百年ほど古い
皇紀元年に発せられた神武天皇の「八紘為宇の詔」である。
この詔は、
イギリスのような民による王に対する権利宣言ではなく、
天皇と民が
「一つの屋根の下に生きる一つの家族」
であるとの宣言なのだ。
即ち、日本は
天皇という家長を戴く一つの家族の国であるという「国の形(國體)」の宣言が、
現在に至る我が国の「不文の憲法」の基本的法源である。
従って、この「国の形(國體)」を現在に具体化した
明治二十二年(一八八九年)に公布された「大日本帝国憲法」も
我が国の「不文の憲法」の法源である。
その上で、
本稿の最初に提示した、
国家の危機において、
如何にして内閣総理大臣を決定すべきかという
我が国の存亡が懸かった課題に戻り、
一つの劇的な事例を挙げたい。

昭和二十年四月五日、
硫黄島守備隊は既に玉砕し、
A・スプルアンス提督の指揮するアメリカ軍は沖縄本島に続々と上陸してきた時、
小磯・米内内閣は、もはや戦争指導不能と総辞職した。
この時、
国会議員の中から後継総理を選んでおれば、「日本」は確実に滅亡した。
時の国会議員は、
現在の小泉郵政民営化選挙や都構想選挙と同様の
翼賛選挙で選ばれており、
対中戦争を継続している政府を批判した
斉藤隆夫や西尾末広議員を除名していた。
そこで、
六人の首相経験者と鈴木貫太郎海軍大将枢密院議長が、
重臣会議を開いて四時間近く話し合い、
強硬に固辞する鈴木貫太郎を総理に推選することに決した。
陛下にとっても、鈴木貫太郎は、
まさに意中の人物であった。
よって、陛下は、同日深夜、
鈴木貫太郎を皇居御学問所に召された。
鈴木貫太郎は
昭和四年から十一年の二・二六事件まで侍従長を勤めていた。
従って、陛下は、御前にでてきた鈴木に、
「卿に内閣の組織を命ずる」
とだけ告げられた。
たった一人立ち会っていた侍従長藤田尚徳海軍大将は、
「これは無条件の組閣命令だ」と思った。
その時、鈴木は深く一礼して
「何とぞ、拝辞の御許しを御願いいたしたく存じます・・・
鈴木は一介の武弁、何の政見も持ち合わせませぬ・・・」
と言った。
しかし、陛下は、
「鈴木の心境はよく分かる。
しかし、この重大な時にあたり、もう他に人はいない。・・・
頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」
と言われた。
陛下に、
「頼むから」と言われれば承け給わらねばならない。
鈴木は大命を承けた。
そして、
殺されても、終戦を実現することを固く決意して、
終戦に最も強硬に反対するが、
最も気心が分かって信頼できる陸軍大将阿南惟幾を、
陸軍大臣に任命して組閣を完了し、
国民に対してラジオで次の壮絶な挨拶をした。
「今日、私に大命が降下いたしました以上、・・・
国民諸君は、私の屍を踏み越えて
國運の打開に邁進されることを確信致しまして、
謹んで拝受したのであります。」

この鈴木貫太郎を総理大臣にするという
昭和天皇の「大命降下」が、
日本を救い、現在の日本をつくった。

現在も、東アジアの動乱が、
我が国を存亡の危機に追い詰めることが想定される。
よって我々は、
この昭和二十年の
「救国の大命降下の事例」を忘れてはならない。
即ち、
現在におけるその救国の具体的な実例を示すとすれば、

皇居に元航空幕僚長田母神俊雄空将が呼ばれ、
陛下から、大命の降下を承ける事態、
また、
東日本大震災発災と同時に、
自衛隊を出動させ、
全生存救出者の七割近くの約二万人を救出した
元陸上幕僚長火箱芳文陸将に
陛下が、大命を降下される事態だ。


西村眞悟FBより

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