八月十四日に大阪護国神社に参り、
八月十五日に靖國神社に参った。
その余韻、未だ消えやらず、
前日に続き、これから、
我が輩が実際に聞いた忘れ得ぬ
三名の「恩師の戦争」を記しておきたい。
とはいえ、
個人的な、長々とした回想になるのを、お許し願いたい。
昭和二十三年生まれの小生は、
大阪学芸大(大阪教育大)附属天王寺中学・高校で学んだが、
いわゆる自虐史観を、
先生方に教えてもらった記憶は全く無い。
中学の三年間、担任だった、数学の福原公雄先生は、
ある時、教室で戦争中の話をされた。
中学生の時に、一人、大阪郊外の田圃の中を歩いていたら、
突然、アメリカ軍の戦闘機が飛んできて、
自分一人を狙って低空から機銃掃射をしてきた。
驚いて、必死に走って農具小屋に隠れたが、
敵機は、その農具小屋に
前後三回ほど、バリバリと機銃を撃ち込んで飛び去っていった。
敵戦闘機が去ってから顔を上げて小屋を見わたすと、
十数発の弾が当たっていて、小屋がガタガタになっている。
俺一人に、これほどの膨大な数の弾を撃ち込んでくるアメリカは
ゴッツい国やなあと思った、と言われた。
福原先生のお兄さんは、海軍軍医で、
戦艦大和に乗り込み艦と運命を共にされたと後に語られた。
昭和三十九年(1964年)十月の
東京オリンピックの時の昼休み、
明治時代に建てられた天王寺師範の古色蒼然たる
木造の「学園ホール」で
既に午後の授業が始まっていたが、
陸上競技の「一万メートル決勝」をテレビで観ていた。
すると、優等生がホールに入ってきて
「山口格郎先生の授業が始まっているから教室に戻れ」と言う。
そこで、小生、
「格さんの授業より、この、一万メートル決勝の方がおもろい」
と言って追い返した。
その優等生は教室に戻って、山口先生に、
「西村は、格さんの授業より一万メートル決勝の方がおもろいと言うてます」
と報告したとき、
先生が、にやりとして、
「僕の授業より、一万メートル決勝がおもろいのは当たり前や」
と言った。
ことを、かなり後になって、知った。
それから、小生は山口先生と親しくなって、
卒業後は先生を「格さん」と呼び飲み友達になった。
英語の教師である格さんは、
酒を飲むと「英語の詩」を唸って吟じた。英語の詩吟だ。
そして、しばらくすると、
いつも、目に涙をためて言い出す。
「仇をとりたい」と。
格さんが、陸軍幼年学校在学中、何人もの先輩が、
時々、三々五々、ブラリと母校に現れて、
後輩の自分に、何気なく万年筆やズボンのベルトなどをくれた。
そして、一週間ほどすると、
彼らが特攻で散華していったのを報道で知る。
「ああ、僕は、あの先輩の笑顔が忘れられない。
仇を、とりたい」
格さんは、いつもそう言って涙をこぼした。
格さんが亡くなる十日ほど前に、見舞いにいくと、
格さんは、ベットで起き上がって、女房に言ってくれた。
「こんな、おもしろい人と、知り合ってよかったよ」と。
昨年の十二月の富士山が雪で真っ白になった極寒の日、
映画監督の野伏 翔さん、奥本康大さんそして息子と、
陸上自衛隊富士学校を訪れた。
その時、練達の士官が、
広大な東富士演習場を案内してくれた。
彼は、色々な地点で車を止めて高台に立ち、
数キロ離れた丘また道を指さし、
「あそこにいる一個中隊の敵を如何にして殲滅するか」
「あの道から接近してくる戦車隊を、
何処に布陣して迎撃するか」等々、
いろいろ状況を想定して、
各所を指さして説明してくれた。
その時、急に格さんを思い出した!
格さんは、山が好きでよく山岳地帯を歩いていた。
そして、言った。
「西村なあ、僕は、いつも、突然、
あの丘から機銃掃射を受ければ、
如何に散開して、何処から反撃すればいいのか、
とかふと考えてしまって、
それに気づいて、俺は馬鹿だなあ、と思うんだよ」
帝国海軍将校上がりの地理を教える山崎俊郎先生は、
大東亜戦争の終戦時は、駆逐艦に乗って日本海にいた。
終戦の知らせと戦闘行動の禁止が伝達されてから、
誰言うことなく、
機関砲を西方の露スケ(ロシア)に向けて撃ちまくった。
それから、これからどうしようという話になり、
若い士官の間では、
南のインドシナ海域で海賊でもしようという話もあった。
しかし、艦長が、
妻子のいる兵もいるのでそれはダメだと言い、
舞鶴に戻って船をしっかり係留し、直ちに部隊を解散した。
そして、山崎先生は、
戦後はしばらくトラックの運転手をしていたと聞いた。
ある日の授業で、山崎先生は、
どういう切掛けだったか忘れたが、
北海道の小樽を如何に守ったか、という話を始めた。
小樽はなあ、
北西に広がる海に面して街があり、街の背後は山脈だ。
そこで、俺たちは海に並んで弾幕をつくった。
こうすれば、敵さんは、海から小樽に近づけない。
そこで、敵さんは、
山の向こうから小樽上空に出て爆弾を落とした。
しかし、落とした爆弾は、皆、市街地を通り越して海に落ちた。
俺たちは、小樽の街を守ったんだ、
と、締めくくった。
これを聴いて、生徒は笑い、どよめいた。
後に聞いたが、
山崎先生は、戦後、一人で小樽に行って、
戦中に付き合っていた女性の墓に参ってから
大阪に戻って結婚したという。
高校の校庭で数人が酒を飲んで
月明かりのなかでナメクジのように寝たことがあった。
翌朝、山崎先生は、吾等を広い教室に呼び、言った。
オイ!
教師に分かるように飲むな。
飲みたかったら、俺の家に来い。
いくらでも飲ませてやる。
さて、現在、八十路に入られた浅野浅春先生は、
今年も、全国の高校時代の球児達OBで試合を繰り返して
夢の甲子園を目指す、
「マスターズ甲子園」の試合で
「附属天王寺」のピッチャーとして出場した肉体能力の持ち主で、
我々が、高校一年の時に、新任教官として附属に来られた。
その時、教員室で
軍艦の士官室(ガンルーム)の上官のように迎えたのが
山崎先生だった。
正午ころ、山崎先生は、浅野新任教官を、
職員室の真ん中にある机の前に呼んで、
椅子に座った浅野教官の前に、
一升ビンをおいて飲めと勧め、
グビッと飲ましてから言った。
「オイ、ここに、働きに来たと思うな、遊びに来たと思え」
新任の浅野教官、
ビックリしてハイと頷いた。
浅野先生は、八十路に入った今でも、
「山崎さんが恐かった」と言っている。
山崎先生としては、若き後輩に、
日教組的感覚はもつなと言いたかったのだろう。
そして、この山崎先生の
初回の帝国海軍的「カツ」は、
見事に結実した。
平成二十四年(2012年)、附属高校二十三期の
山中伸弥さんがノーベル医学賞を受賞した時、
マスコミは、
附属高校の教育に特別なものがあったのかと探し廻り、
附属高校では、
「試験の際に、試験官が教室にいない」
ということを突き止め、
これが、「ノーベル賞獲得の秘策か」、と沸き立ち、
如何なる教育的目的を持って試験の時に、
「部屋に試験官がいない」のか?と
長年、附属高校で教え、校長も経験している、浅野先生に、
その理由を聞くために押しかけた。
そこで、
さすが、帝国海軍士官にかまされた浅野先生、
単純、明快に一口で答えた。
曰く、「教師が、遊びたいからや」
マスコミ、「エッ、?!、?!・・・」
浅野先生、
小生に笑って言った。
「それから、マスコミの取材は、ピタッ、と無くなったわ」
我が輩は、
時々、浅野浅春先生と
ジジイになった同級生と酒を飲み、
亡くなった山崎俊郎先生、山口格郎先生の話をするのが
供養だと思っている。
普通米と無洗米どっちが好き?
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