大東亜戦争と鈴木貫太郎 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

八月の偶感

八月十五日以降も

「大東亜戦争」

を忘れるな


マスコミと政界の「例年の八月」が十五日で終わり、

総理大臣は、靖國神社に参拝することなく

ゴルフ場には行きよった。


例年、八月に入ると、

大東亜戦争に於ける

アメリカ軍による都市無差別爆撃と原子爆弾投下によって、

焼かれた市街地の状況と

炭になるまで焼かれた焼死体の無残な映像が繰り返し放映され

アメリカ軍が撮影した

戦死した日本軍将兵、死にゆく日本軍将兵の姿が放映される。

そして、

大勢のマスコミが靖國神社の参集殿の前で待機していて、

閣僚が参拝すると

「奇怪なことをした者」がいると群がって取材する。

しかし、八月十五日を過ぎると、

ピタリと、別世界になったように、この種の放映は無くなる。


岸田総理大臣、貴官は、八月十五日、

畏れ多くも、天皇陛下の前で、

戦没将兵の大元帥陛下の前で、

戦没将兵を「戦争の犠牲者」と言ったな。

貴官は何故、

戦没将兵に、

現在の世界は、人種差別がなくなり、

植民地支配もなくなったのです、

この大いなる世界文明の転換は、

戦没将兵、つまり、貴兄らが

命をかけてくれたお陰であります。

喪心より、感謝と慰霊の誠を捧げます。

と、言わないのか?

総理大臣かつ自衛隊最高指揮官なら言うべきである。

また、

九段に来ていたなら、

歩いて靖國神社に参拝に来い!

ゴルフができるなら、

暑くとも歩いて来られるじゃろが。

そして、

靖國神社の英霊に参拝の誠を捧げろ!

・・・とは言え、

何をか言わん。

この最高指揮官は、既にゴルフ場におる。

しかし、総理大臣、

我が国未曾有の歴史の追想を、

八月十五日の日本武道館で、

プツンと終わらせてはならんぞ。


よって、これから、

まず、八月十四日から十八日にかけての事態の推移を、

その時の侍従長・海軍大将藤田尚徳の「回想」と

総理大臣鈴木貫太郎の「自伝」によって記す。


八月十四日午前八時四十分、

天皇陛下は、

堅い決心をお示しになって

再度の御前会議を鈴木首相に申し渡された。

午前十時四十五分 御前会議開会

まず梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長が

ポツダム宣言受諾に反対した。

阿南惟幾陸軍大臣が立って同趣旨を慟哭しながら述べた。

陛下も何度か、白い手袋で涙を拭かれた。

以後、

発言者無きを確かめ、

鈴木首相が進み出て陛下のご発言を乞う。

すると、陛下は、

鈴木に着席を促されて話を始められた。

その冒頭は、

「外に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。

私は世界の現状と国内の事情を十分検討した結果、

これ以上戦争を続けることは無理だと考える。・・・」


陛下のお話の途中から、出席者の涕泣する声が次第に高まった。

特に、陛下が、

「我が一身はどうなろうとかまわぬ、国民を戦火から守りたい」

と言われた頃から、人々は号泣していた。

そして、御聖断が下された。

その陛下の御聖断が下ってからも

出席者の慟哭する声が聞こえた。

中でも阿南陸相は、

お立ちになる陛下に取りすがるように慟哭した。

その時、陛下は、

阿南にやさしく言われた。


「阿南、阿南、お前の気持ちはよく分かっている。

しかし、私には國體を護れる確信がある。」


このようにして、御前会議は、正午少し前に終了した。

それから、

鈴木首相は、

閣議を開いて「終戦詔書案」の審議に入り、

夜の午後十時前、

陛下の前に詔書案を奉呈した。

以後、侍従長の手元で、

詔書を奉書に清書し、録音の準備に入った。


内閣が閣議を経て陛下に奉呈した詔書案は、

鈴木首相の手記によると、

「その内容は、ほとんど二回にわたる

御前会議における陛下のご発言をそのまま内容とし」

閣議で議論した要点は、

「いかにこの陛下の御聖慮を正しく反映させるか」

に終始した、ということだ。

従って、陛下が、

ラジオを通じて国民に伝えられた

「終戦の詔書」は、

陛下が、

御前会議に於いて重臣達に話された内容そのものなのだ。

則ち、陛下は、

重臣達にも国民にも

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び

「萬世の為に太平を開かん」

と伝えられたのだ。


十四日の十一時を過ぎた深夜、

宮内省内で、陛下は詔書を朗読し録音された。

侍立する侍従長藤田は、万感が胸に広がり涙がわいた。

朗読は二度にわたったが、陛下の朗読は完璧とはいえなかった。

従って、放送局関係者から

三度目の朗読をとの希望が伝えられたが、

宮相も侍従長も、

陛下のご疲労とご心痛を思い、これを止めた。

「終戦の詔書」の内容は、

斯くの如くであり

「玉音放送」は、このようにして出来た。


従って、現在においても、

毎年八月十五日正午には、

マスコミは、

この不滅の「終戦の詔書」の「玉音」を

全国に放送すべきである。


なお、陸軍大臣阿南惟幾に注目されたい。

阿南陸相は、

十四日午後十一時半過ぎに

三宅坂の陸相官邸に戻った。

日が変わった十五日午前五時三十分、

阿南陸相は、

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」

と墨書し、さらに、

「神州不滅ヲ確信シツツ、」

と書き加えた。

辞世は、

大君の深き恵みに浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし

そして、

縁に出て皇居に向かって割腹自刃した。


総理だった鈴木貫太郎は、

阿南陸相を次のように回顧している。

「抗戦のみを主張する人ならば、

簡単に席を蹴って辞表を出せば、

余の内閣などはたちまち瓦解してしまうべきものであった。

 それを反対論を吐露しつつ最後の場面までついてきて、

立派に終戦のご詔勅に副署して後、

自刃して行かれた。

実に立派な態度であったと思う。」

「陸相は、決して自己の主張する抗戦論が容れられなかったから自刃したという、

そんな単純な心境ではなかったと思う。

眞に国を思う誠忠の人として、最後まで善処され、

陸軍部内の心中を思い、自ら犠牲になられた人として、

誠に余は尊敬を禁じ得ない立派な人物だ。」


阿南惟幾は、

かつて侍従武官として使えた陛下の、

御聖断を無視して徹底抗戦に出ようとする陸軍内部の動きを

「陛下の陸軍大臣」

として阻止する為に割腹自刃したのだ。


阿南陸相に続いて、次の人々が自決した。

海軍軍令部次長    中将 大西滝治郎

元憲兵司令部本部長  中将 城倉義衛

航空本部長      中将 寺本熊市

元関東軍司令官    大將 本庄 繁

東部軍司令官     大將 田中静壱

大阪海軍監督部長   中将 森住松雄

第一総軍司令官    元帥 杉山 元


八月十五日、

藤田侍従長は次のように書き出している。

「陛下は、ついに休息をおとりにならなかった。

十五日には朝から表御座所にお出ましになったままで・・・

終戦を知った国民の動揺はどうか・・・

陛下は何度か侍従達にこの点をお質ねになった。」

午後、

辞表を奉呈した鈴木首相に、

陛下は、

「御苦労をかけた」

優しくいたわられた。

千万言をつらねるよりも、

なお深い君臣の情が、

この一言に集められたようだった。


この日、陛下は、

帝国陸海軍に対して、積極的侵攻作戦を中止すべき旨の

陸軍に対する大陸命、

海軍に対する大海令

を発せられた。


八月十六日

午前九時十七分、

陛下は三人の皇族を皇居に呼び入れられ、

ポツダム宣言受諾の聖旨伝達のため、

鳩彦王を支那派遣軍へ

恒徳王を関東軍へ

春仁王を南方軍へ

それぞれ差し遣わす旨命じられた。

また、

自衛の為を除く戦闘行動即時停止の大陸命を発せらる。


八月十七日

この日の早朝より、

千島最北端の占守島にソ連軍機の爆撃始まる。

午前十時、「陸海軍人に対する勅語」を発せられる

午前十一時五十分、

陸軍大将東久邇宮稔彦王を

内閣総理大臣兼陸軍大臣とする内閣発足

陸軍大将である皇族を内閣総理大臣兼陸相にすることによって

徹底抗戦を主張する陸軍部隊を押さえようとされたのだ。


八月十八日

早朝二時三十分、

ソ連軍占守島に艦砲射撃をして上陸を開始した。

午前四時、

上陸したソ連軍と日本軍の激戦となる。


第五方面軍司令官 樋口季一郞中将

「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」

と命令を下す。


八月二十一日、

日本軍の降伏によって占守島の戦いが終了する。

日本軍戦死者二五六名、   ソ連軍戦死者二千名

   負傷者七六二名       負傷者一千名

ソ連軍首脳部は、

占守島の戦いでの予想外の戦死者数に驚き、

これが、

ソ連軍の北海道上陸を断念させる契機となる。


西村眞悟FBより

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