朝鮮通信使と柳川一件 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

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江戸時代の朝鮮通信使に関連して起こった対馬藩の事件は、
「柳川一件」
と呼ばれ、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓にされました。
どんなに勉強ができたり通訳ができたとしても、
「民を靖(やす)んじる」
という施政の本義を失ったならば武士ではない。
どんなに学問ができようが良い大学を出ようが、一見正しげな理屈を言おうが、国を靖んじ民の安寧を離れては「曲学阿世の徒」でしかないということが、きつく武家のいましめとされたのです。


かつて百済や新羅があった時代、百済王や新羅王の倅(せがれ)、つまり次の国王となる王子は、人質として日本の都に留め置かれました。
これは日本における伝統的な統治方法で、こうすることによって日本で成長した王子が日本人女性と結ばれる。
そしてその王子が次の国王になれば、その次の王となる王子は日本人との混血ですから、きわめて平和的に血が混じり、両国が自然と良い関係になっていく。

この方法を全面的に採り入れたのが元の大帝国で、元もまた征服した各地の王から、後継ぎの王子をカラコルムに人質に取り、子供のうちからモンゴルで過ごさせることによって、モンゴルの言葉や習俗にも通じ、モンゴル人の妻を娶って、次の国王を生んでいました。

また同時にこのことは、次の国王となる王子が人質になっているということは、その王国が裏切れば、その王子はまっさきに処刑されるわけです。
つまり、王は、宗主国を裏切れないというわけで、これはどうみても、王子が人質に取られている側が、宗主国の属国となっているということが明らかです。

これと同じ仕組みが西洋にもあって、国王の側近にあって国王を護るための兵のことを近衛兵と言いますが、その近衛兵というのは、王に従う貴族たちの跡取り息子たちです。
貴族は、王の命令によって、外地に出征していきますが、もし、その貴族が王を裏切ったり、裏切ったと疑われるような振舞いをすれば、即時、王子は処刑、国許にある貴族の領地や財産も没収、貴族の館に勤める女たちも奴隷として売買されるというのが、近衛兵の仕組みです。
世の中、決して甘くはないのです。

ところが戦後の日本の歴史教科書や歴史小説、あるいは韓国の歴史教科書は、百済や新羅が日本に王子を人質として出していたことについて、これを
「親善大使として、日本に長く逗留させていた」
などと、まことしやかな嘘を書いていました。

少し考えれば、親善大使なら、子供時代から青年期に達するまで何年もの間、日本にずっと滞在し続ける理由がありませんから、誰でもこの書き方がおかしいことに気付いてしまうのですが、そのように書いた経験のあるある作家の方に以前伺いましたところ、当時はそう書かないと流通に乗せてもらえなかったのだそうです。

もっとも韓国の歴史教科書は、新羅や百済の方が日本よりも文化的な上位国であって、遅れた国である日本に王子を「親善大使」として送ったのだと相変わらず強弁しているようです。
しかし後年の李氏朝鮮は、モンゴルに征服されたとき、やはり王子をモンゴルに送っていますし、これは明らかな人質以外の何ものでもありませんし、日本は新羅にも百済にも李氏朝鮮にも、天皇や将軍の跡取りを人質に送ったことなど、歴史上、ただの一度もありません。
嘘は、つじつまが合わないから、結局はバレるのです。

同じように嘘にまみれたものに、江戸時代に朝鮮から来日した朝鮮通信使があります。
この朝鮮通信使について、Koreaでは
「徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、
 先進文物を取り入れようと
 李氏朝鮮王に懇願して招いたもの」
だったと教えているのだそうですが、馬鹿な話です。
徳川幕府というのは、いまのお金に換算すれば、将軍の個人資産が800兆円に達していた当時にあって、世界最大の大金持ち政権です。
なにせ世界の金の3分の1を支配していたのです。
それがどこをどうしたら「徳川幕府が経済的に困窮」となるのでしょうか。

しかも朝鮮通信使は、毎度600人からの大勢でやってきて、日本国内を対馬から江戸まで旅するのですが、その旅の経費は、毎度、全額日本持ちです。
「将軍家就任のお祝いにやってきた」というのですから、粗略に扱うわけにもいかないし、彼らに自由行動を認めれば、娘はかどわかすし、暴力は振るうし、放置できないから仕方なく日本側で全部経費の面倒をみながら、彼らの行動を制限するしかなかったのです。

ちなみに李氏朝鮮では、国王から派遣される巡見使が国内の地方を回るときは、それぞれの滞在先で巡見使の一行の全員が、それぞれの村の若い娘に夜伽を命じ、言うことを聞かなければ、娘が承諾するまで、その娘の眼の前で、その娘の親兄弟をムチでぶっ叩くというのが慣習でした。
彼らの国ではそれが常識であったとしても、我が国では、村人たちは全員、天子様の大御宝であり、これを護るのが大名や将軍の務めですから、彼らの行動を制約するためには、厳重警護するしかなかったというのが実情でした。
そこまでしても、よその国に来て、鶏泥棒はするし、畑の作物は勝手に持ち去るし、旅籠に泊めれば、旅籠にある置物から布団、茶碗まで全部持っていってしまう。
朝になれば、旅籠にちゃんとトイレがあるのに、わざわざ路上に出てフンをする。
だから江戸時代の末期になると、さすがにあまりに迷惑だからと、対馬で追い返し、追い返すことに成功した対馬守は、その功績で将軍から多額の謝礼を受け取っているのです。

そういえば、江戸時代のはじめ頃、秀吉の時代に日本にやってきた朝鮮の儒者や職人たちを、李氏朝鮮が「返せ」と言ってきたことがありました。
職人たちというのは、陶工などの特定の技術知識集団だったのですが、この求めに、儒者はほとんどが帰国を希望したので、日本はあご足つきで、彼らを朝鮮に送り返しました。

ところが技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。


ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
つまり、圧倒的大多数の半島人職人さんたちは、日本に居残ることを希望したのです。

ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
あくまでも「返せ!」という。

このことは、朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱です。
ですから対馬藩は、領海内での漁業操業の安定化のために徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。

一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきた李氏朝鮮は、対馬藩に対して、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけました。
いつもの朝鮮の自尊肥大なのですが、言うことをきかなければ武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのですから、放置できない。
対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされたのです。


こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くないのですが、当時の日本では、李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
日本人は、民のために国があると考えますが、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域です。
当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられていたのです。
これは正しい認識というべきです。

※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。


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