日本人同胞に告げる 四 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 


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割り箸ワカメは必ず入れます。


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そもそも、日本人とは何か。
夫れ、日本人とは、
「国家開闢以来、天照大御神の天壌無窮の神勅よる天皇を戴いてきた民族である」
と言い切る者のことではないのか。

フランスの社会人類学者で民族学や神話学を修めた
クロード・レビ=ストロース(一九〇八年~二〇〇九年)は、
日本について次のように書いた。

「日本的特殊性なるものがあり、それは根源からしてあったのだ。
そしてそれが外部からの諸要素を精錬して、常に独創的な何物かを創りあげてきた。
我々西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」

また、ド・ゴール研究所初代所長のオリビエ・ジェルマントマ(一九四三年~)は、
平成二十五年の伊勢神宮の式年遷宮を目の当たりに見て、
フランスの「フィガロ紙」に「伊勢の聖夜」と題する次の一文を書いている。

「闇と沈黙のなか、女神アマテラスを聖櫃に奉じ、
これに生絹を掛けて神官の群れが粛々と運んでゆく。
生きとし生けるものの起源そのもののシンボルが、いま、眼前を通りすぎてゆく・・・
この景観に、われらの小我の殻など、微塵に吹っ飛んでしまう。
一月以来、すでに伊勢神宮参詣者は一千万人に達したという。さらに増加の一途をたどるとか。東日本大震災により、抑えがたき自然の猛威にさらされて、どこから己を取り戻すか、日本人が自覚していることの何よりも証拠である。
森羅万象の諸力を崇敬するという伝統維持であり、
そこに、日本的ジェニー(天才)はあるのだ。」

この二人のフランス人の方が、
戦後の日本人より、「日本を観た」、と思われないか。
この二人のフランス人も、
アメリカ人が占領中に書いた「日本国憲法」という文書が、日本の憲法として有効だということに疑念を持たずに、それを「改正」すれば済むと考えることは、
「戦後体制の擁護」つまり「敗戦体制の擁護」または「敗戦利得者のすること」
であって、日本の真の保守とは判断しないであろう。
そもそも、無効なものを「改正」してどうなる。

そこで、本稿を締めくくるに当たり、
我が国の天皇が、
この度の人類史を変える事件である武漢ウイルス禍が襲う遙か以前から、
「天皇の知らす国」である日本の統治者として、
何をされていたのかを記したい。
「知らす」とは、古代大和ことばで、
支配するのではなく他者と溶け合って一体となること、家族のようになることを意味する。
支配することは古代大和ことばで、「うしはく」と言った。
出雲の「国譲りの神話」は、
天照大御神の使者が出雲の海岸に上がり、大国主神に、
あなたの「うしはく葦原の中つ国」は、
我が御子の「知らす国」だと
天照大御神がおっしゃっておられるのですが、
あなたのお考えはいかがですか、
と尋ねると、
大国主神がそれに応じ、自分の支配する国の民を、
天皇と家族のように一体になる国の民にした高貴な物語で、
戦国時代の国盗り物語とは天地違う。
それ故、上皇后陛下は、
出雲大社に参られた際、
「国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びて止まず」
と詠まれたのだ。
このように、「天皇の知らす国」とは
天皇と国民が一つの家族のようになっている「日本の国」のことで、
これは太古から現在まで不変で一貫している。
萬葉集第一巻冒頭の歌は、
春の野で野草を摘んでいる乙女に求愛される雄略天皇の御製であるが、
その冒頭の説明は、
「泊瀨朝倉の宮に天の下知らしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)」とある。
そして、この万葉集から遙か後の現在の東日本大震災の時、
被災地を巡り、被災した人々を、
我が家族のように、一人一人、励まし慰めておられた
天皇陛下のお姿こそ、万葉の昔と変わらない「天皇の知らす国」のお姿である。
あの時、総理大臣菅直人は官邸と東電本社で喚いていただけで、
統治者ではなかったのである。
我が国を統治されていたのは、
即ち、知らされていたのは天皇陛下であった。
「大日本帝国憲法」の実質的起草者である井上毅は、
フランスとドイツに学び、帰国後は、古事記、日本書紀、万葉集などの古典研究に没頭し、
第一条を「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と書いたが、
この「統治す」は「知らす」という意味であり、権力で支配するという意味ではない。
さて、昨年春、先帝は譲位され新帝が践祚された。
そして、昨年晩秋、新帝は大嘗祭に臨まれた。
大嘗祭は皇居の中に大嘗宮の悠紀殿と主基殿を建て、
そこに天皇がお一人で夜に籠もられる。誰も同席することはできない。
天皇はそこで、天照大御神の食されるお膳を自ら作られ、御自分のお膳も作られ、
天照大御神と共に食事をされる。
そして、徳島県吉野川上流域の畑で大嘗祭が執り行われる時のみ栽培される大麻で編んだ麁服(あらたえ)という織物を身体に巻いて、
天照大御神と同じ床で明け方までおやすみになる。
その時、天照大御神が降りてこられ天皇と一体になられる。
即ち、天皇は「現人神」になられる。
これが宮中祭祀のなかで最重要な儀式である大嘗祭だ。
よって、ここに、
万世一系の意味が明らかになる。
これは、天壌無窮の神勅を下した天照大御神が
初代の神武天皇から百二十六代の今上陛下まで生き通しているということだ。
次に、大嘗祭の後の令和二年の元旦、皇居で四方拝が行われた。
この四方拝も宮中祭祀の最重要の儀式である。
それ故、昭和天皇は、
昭和二十年一月一日午前五時、都内の各所から空襲警報が鳴り響き、
皇居内の高射砲陣地からサーチライトの光が空を照射するなかでも四方拝をされた。
四方拝は、元旦、寅の刻(午前四時ころ)から
黄櫖染御袍(こうろぜんごほう)に身を包まれた天皇が、
宮中三殿の神嘉殿の南側に設けられた建物にお一人で入られて行われる。
これは、遙か昔からの皇祖相伝の儀式(秘儀)であり、
侍従も見ることはできない(藤田尚徳著「侍従長の回想」)。
天皇は、伊勢の皇大神宮、豊受大神宮の両宮に向かって礼拝された後、
四方の諸神を拝し、そして、呪文を唱えられる。
その呪文は、
「総ての災厄などの悪いものは、皆、ことごとく我が身を通れ、我はそれを浄化したい」
という決意を表明した呪文である。
この呪文は、天皇御自身でなければ唱えられず、御代拝は認められない。
呪文は、次の通りと教えられている。

呪文
賊冠之中過度我身(ぞくかん しちゅう かどがしん)
毒魔之中過度我身(どくま しちゅう かどがしん)
毒気之中過度我身(どくき しちゅう かどがしん)
毀厄之中過度我身(きやく しちゅう かどがしん)
五急六害之中過度我身(ごきゅうろくがい しちゅう かどがしん)
五兵六舌之中過度我身(ごきゅうろくぜつ しちゅう かどがしん)
厭魅之中過度我身(えんみ しちゅう かどがしん)
萬病除癒(まんびょうじょゆ)
所欲随心(しょよくずいしん)
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)

我が国は、
すべての悪いものは、皆、我が身を通れ(過度我身)、
我がそれを浄化したいと願う
天皇を戴く家族の国なのだ。
とはいえ、諸兄姉、
早朝の暗闇の中で、一人、この世の総ての悪いことは
皆自分の中を通れと唱えられますか。
身の毛がよだつではないか。
自分が生んだ幼児の為なら、母はそれをすると思うが、
天皇は、全国民の為に、
総ての悪いことは、皆我が身を通れ、我がそれを浄化すると誓われる。
とてつもない御存在ではないか。
このような元首を戴く国が他にあろうか!
ありがたさ、心にしみる!

さて、現在進行中の武漢ウイルス禍との戦い、
さらに、それが済んだ後の我が国を取り巻く内外の情勢は、
一段と厳しさを増してくると思われる。
その時、我らは、
我が国は大嘗祭と四方拝を行われた天皇の知らす国であるという
我が國體を忘れることなく、
自信と誇りを以て立ち向かおうではないか。
この國體への確信を堅持すれば、
最重要作業である
「教育の再興と不可分一体の国軍の創設」も、
掌中に入れたようなものである。
我が国の真の憲法とはこの國體なのであるから、
危機において國體が明らかになれば危機を克服できるのだ。
その例を挙げて本稿を閉じる。

平成五年七月十二日の真夜中午後十時二十七分の
奥尻島を襲った北海道南西沖地震は、
一年半後の激烈な阪神淡路大震災の影に隠れるように目立たないが、
奥尻島北方沖を震源地とする推定震度六の激震であった。
その数分後、
真っ暗な海から波の高さ二十九メートルの未曾有の津波が奥尻島を襲い、
島の北部の集落はほぼ潰滅し、津波を免れた集落には火災が襲った。
そして、死者と行方不明者は二百三十名となった。
人口4千余名の島で二百三十名が一瞬のうちにいなくなったのだ。
島民にとって、突然の信じられない大災害だった。
それ故、地震後、一週間ほど、
人々は呆然と瓦礫のなかに座り込んだまま無気力に海を眺めるままだった。
そこへ、天皇皇后両陛下が、
島に慰霊と激励に来られるとの報が入った。
すると、今まで呆然と座っていた年寄りの目の色が変わった。
彼等は、立ち上がり、
いそいそと道のゴミの処理し、潰れた家の前の後片付けを始めたのだ。
そして、天皇皇后両陛下に励まされた島民は、
一団となって復興モードに入っていった。
警察官僚出身で危機管理の専門家だった佐々淳行氏は、
この様子を驚きと目を見張る思いで見た。そして、
天皇の御稜威の凄さ、
天皇の底知れぬ力を感じたと報告している。

平成二十三年三月十一日に発災した東日本大震災の際、
昔の人が、「馬鹿な大将敵より怖い」と言ったとおり、総理大臣は最悪だった。
しかし、被災地で秩序を維持し譲り合い助け合う日本国民の姿は、
世界を驚嘆させた。
自衛隊は、敵より怖い馬鹿な大将の指示などを待たず、直ちに出動して
陸海空あわせて空前の十万七千の「被災者救出救援特別任務部隊」を編成し、
寝食を忘れて任務に突入して、
全生存救出数の七割の一万九千二百八十六名を救出した。
この時、
天皇陛下は皇后陛下と共に度々被災地の人々を見舞われ激励され、
また「お言葉」を発せられて、被災地の国民に対し
「この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれます」
と激励され、
さらに、自衛隊を筆頭に挙げられながら、
「余震の続く危険な状況のなかで、
日夜、救援活動を進めている努力に感謝し、
その労を深くねぎらいます」
と告げられたのだ。
天皇陛下が自衛隊を筆頭に挙げて感謝され労を深くねぎらわれたのだ。
そして、自衛隊の十万七千の特別任務部隊の指揮官である
君塚栄治東部方面総監、陸将は、
松島基地に被災地激励の為に自衛隊機で到着された
天皇陛下に、
鉄兜と野戦服の姿で正対して敬礼した。
この時、君塚陸将に指揮されている十万七千の自衛隊は、
天皇の知らす国の天皇の軍隊であった。
木更津に駐屯する陸上自衛隊「第一ヘリコプター団(金丸章彦団長)」の
二機の大型ヘリCH47が、三月十七日早朝、
福島第一原発の水素爆発で上部が吹っ飛んだ灼熱の原子炉建屋の上空にホバリングして、
合計四回約三十トンの放水を実施しようとする時、
その計画を知ったアメリカ軍将官は、
「人の命を何とも思わないような作戦はするな」と言った。
さらに放水後、中共軍の将官が、
「日本人は戦前と戦後、ちっとも変わらない。簡単に命をかけてくる。
日本に核ミサイルの照準を当てて発射準備をすれば、
日本人は確実に飛行機に爆弾を満載してミサイルに突っ込んでくるだろう」と言った。
また、多くの人が、
絶望的な状況の中で、逃げ遅れた人々を救うために、
あの真っ黒い巨大な津波に向かって走ってゆくパトカーの姿を見ている。
以上は、
危機に際して顕れる日本人の姿である。

諸兄姉、
日本を信じよう、
楠木正成のように国の為に死んでも生きると信じよう。
明治天皇の日露戦争の際の御製を記して筆を擱く。

敷島の大和心のををしさはことある時そあらわれにける

令和2年5月7日(木)
西村眞悟の時事通信より。