再び会津を思う | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

九日の本FBで、
八年前の猪苗代のホテルに滞在されていた
九百名の福島第一原発近傍の双葉町から避難していた人びとのことを報告した。
あの九百名の双葉町の皆さんとは、
大震災のあった平成二十三年の七月に猪苗代でお会いしただけで、翌年はもうおられなかった。
それ故、印象に深く残っている。

亡くなったドナルド・キーンさんは、
東日本大震災の被災地の人びとを観て
日本に帰化しようと決めて日本人として亡くなった。
作家の高見順さんは、
上野駅で空襲から疎開してゆく人びとの姿を観て、
このような人びとと共に生き、共に死にたいと日記に書いた。
戦前に上智大学の学長になった
ドイツ人のヘルマン・ホイベルス師は、
来日して数日後に遭遇した関東大震災の被災者が、
列になって黙々と避難してゆく姿を観て、
日本人が好きになったと語った。

同様に、僕も、
猪苗代で会った双葉町に人びとから深い印象を受けたのだ。
それはごく自然に為される仕草であった。
例えば、エレベーターに乗るときに、
どうぞ、どうぞ、おさきに、
わたしどもは、あとからでけっこうです、
という仕草をされるのである。

そこで、猪苗代と会津のこと黙しがたく、
六月七日の晩の懇親会で
同じテーブルに座った
一人の会津人の書いた本をご紹介したい。

笠井 尚 著
「会津人探究」
副題「戊辰戦争 生き延びし者たちにも大義あり」
発行所 株式会社ラピュータ
〒174-0041
東京都板橋区舟渡2-7-5-203号
℡ 03-5948―7161
Fax 03-5948-7162

笠井 尚氏(昭和二十七年、会津若松市生)は、
この本を書いた動機を次の通り語る。

「戊辰戦争で敗れたとはいえ、薩長に義があったように、
会津にも義があった。
それを知ってもらうために、
私はこの本を世に問うことにした。
会津もまた、薩長と同じように、
新しい時代を切り開こうとしたのである。」

「白虎隊士中二番隊の十九士は、
國に殉ずることを潔しとした。
飯盛山での壮絶な最期は、
ノブレス・オブリージュの極致であった。
それを培った会津の精神風土も問題にしなくてはならない。
いつの時代であろうとも、
日本が危機に直面すると、
そこで思い起こされるのは、
白虎隊の少年達の死なのである。」

「容保公の預かりとなった新撰組もまた、
京都の治安維持のために身を挺したことで、
薩長の憎悪の対象となった。
将軍家茂の上洛を警護するために組織された浪人たちは、
会津と運命を共にすることになった。
激動の時代に翻弄された新撰組の顛末を語ることは、
戊辰戦争の闇に一石を投ずることなのである。」

「会津人は口ごもりがちである。私もその一人であるが、
薩長をテロリスト呼ばわりして、
会津だけが正義であるという主張には与さない。
会津にも義があったということを
知ってもらえばよいのである。」

 

令和元年六月十三日(木)

西村眞悟FBより。