六月七日、八日、猪苗代を訪れ、
田母神俊雄閣下とともに時局を話した。
東日本大震災の五ヶ月後の同年七月以来、
本年まで、
毎年一度、猪苗代を訪れて話をしてきた。
猪苗代の会津士魂を漂わす高士、
医師である野崎 豊先生に繋がる
会津・猪苗代・郡山・須賀川一帯の人々が
猪苗代の大きなホテルリヒテルに集まり、話を聴いてくれるのだ。
本年は、
私、田母神俊雄閣下が話したあと、
「空の神兵」奥本實中尉のご子息である奥本康大さんが来て
父上が指揮を執って勇戦奮闘した
世界陸戦史上特筆すべき
スマトラ島パレンバンにある巨大な給油所と飛行場を少数で一挙に制圧する
死を覚悟した救国の
「パレンバン落下傘降下挺進作戦」
の世界史的意義について語った。
作戦開始に当たり、奥本中尉は部下に言った。
「休養は靖国神社でとる」と。
私は、集まった方々にまず次のことを語った。
八年前に、始めてここに来たとき、
福島第一原発近くの双葉町から九百名の皆様が
郷里から避難してこのホテルで生活されていた。
私は、その方々を前にして言った。
「我が国には原子力発電が必要である」
と。
すると、一人の初老の紳士が手を挙げて
「私は双葉町避難民自治会の会長をしている」
と自己紹介をされてから発言された。
「我々は原子炉が潰れ放射能が漏れ出したので
郷里から退去させられて猪苗代のここにいるのだ。
この我々の前で、
原子力発電は日本に必要だ、
と言い切ってくれたことに敬意を表する。
マスコミは、
あたかも原子力発電所付近の地元住民は、
電力会社からカネをもらったので原子力発電所の建設に同意した
というようなことを言っている。
これは非常に心外である。
我々も、貴方のように
原子力発電が日本に必要だ、と思ったので
建設に同意したのだ」
この時、私は、
会津の人々は、口数は少なく物言わぬ人々だが、
偉い方々だなあとつくづく思った。
日本の被災地には偉い人たちがいるなあと思った。
学生時代、
京都左京区の大文字山の麓で過ごした私は、
ほぼ毎日、
黒谷の金戒光明寺の東の山にある
会津藩士の墓の前を通り、時に、お参りをしていた。
ここは文久二年(1862年)から慶応三年(1868年)まで
京都守護職となった会津本陣が置かれ、
藩主松平容保に率いられた一千名の会津藩士が駐屯していた。
そして、文久二年、会津を出発するとき、
主従、涙して、
「君臣ともに京帥の地を以て死所とすべきなり」
と言い交わした通り、
京帥の地で没した三百五十二名の会津藩の人々が埋葬されている。
実に、会津を出発した藩士の三人に一人が京で没していることになる。
それで、私は、
郡山側からトンネルをくぐって猪苗代側に出ると、
いつも眼下に広がる湖を眺めて、
文久二年の八月、
京都に向かう一千名の会津藩士達は、
この猪苗代を眺めながら京都に向かったのかと思う。
毎年、会津を訪れていて思う。
明治百五十年で、
薩摩長州土佐肥前の連中、
特に長州の、突然転がり込んだ維新功業自慢の時は終わった。
まことに厳しいこれからの時代は、
物言わぬ会津士魂を甦らせよと要求している。
令和元年六月九日(日)
西村眞悟FBより。
ロマンを大切にする理想主義?それとも現実主義?
男のロマンを持ちつつ、現実主義です(笑)