平成27年5月28日(木)
五月二十六日、
対馬を訪れ文永十一年(一二七四年)十月六日、
軍船九百艘を接岸して上陸してきた三万の蒙古軍を相手に、
宗助国らが八十四騎で、午前四時頃(寅の刻)から午前九時頃(辰の刻)まで、
実に五時間にわたって勇戦奮闘して玉砕した西海岸の小茂田浜を訪れた。
古戦場に建つ小茂田浜神社に参拝し、浜に出て海を眺めた。
小茂田浜は、リアス式海岸の数の少ない上陸適地であるが、左右に山が迫り、陸に入れば急速に左右から山が迫ってきて平地が無くなり、山の中の川沿いの細い道だけになる。
この地形では、上陸した三万の蒙古兵は、浜にあふれてなかなか奧に進めなかったと思われる。
宗助国ら八十四騎は、山が両側から迫ってきて敵が少人数になってひしめいているところで迎撃したのだろう。
敵は、平原における戦闘にはなれているが、山岳戦は不得手であり、しかも日本の弓は蒙古の弓よりも射程が長い。
それにしても、少数で大軍を相手に五時間も奮闘する気力と体力そして機略は、驚嘆に値する。尋常ではない。しかも、宗助国はその時六十八歳である。
八十四騎で、五時間奮闘し、最後は微笑みながら突撃してきた宗助国ら日本の武士に接した敵の大将が、
「自分は、いろいろな国の敵と戦ってきたが、このような恐ろしい敵は初めてだ」
と語ったのは当然だったと思う。
四月九日、
パラオ共和国ペリリュー島で慰霊のために行幸啓される天皇皇后両陛下をお迎えする日の朝、
「日の丸」に楠木正成の誓った「七生報国」を書いた鉢巻きを頭に巻いたとき、
この元寇の宗助国から大東亜戦争までの総ての英霊が、
天皇が慰霊に来られるこの「天皇の島」に集まってきているような気がした。
それ故、この度、宗助国らの玉砕の地を訪れることができて幸いだった。
小茂田浜から山岳だらけの対馬の島を北上し、比田勝の民宿で泊まり、
翌朝、五月二十七日、
日露戦争における日本の運命を分けたロシアのバルチック艦隊と我が連合艦隊が激突した
日本海海戦の海戦海域を遙か望める上対馬西泊の丘に行った。
その丘には、連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥が揮毫した「恩海義嶠」と刻まれた大きな石碑があり。
日露両国国旗が掲げられるポールのもとに
日本海海戦における総ての戦死者、
ロシア軍四千八百三十人、日本軍百十七人
の名を刻んだ慰霊碑が建てられている。
この丘の下の海岸近くには清水のわき出る井戸がある。
バルチック艦隊の沈没した艦船ウラジミール・モノマフ号の水兵百四十三人は、四隻のボートに乗ってこの北対馬の海岸に上陸した。
疲労困憊して上陸してきた彼らを見た近所の二人の農婦が、水を欲しがる彼らをこの井戸に案内した。
そして、この地区の人びとは、彼らに食料を与え傷の手当てをし宿を提供した。
彼らは元気になり祖国ロシアに帰ることができた。
この義挙を知った東郷平八郎元帥が、西泊に「恩海義嶠」の文字を揮毫した。
世界が注目した日本海海戦(地元では対馬沖海戦という)は、百十年前の五月二十七日に行われ、
連合艦隊が偉大な勝利を得た。そして、その後の世界史を変えた。
「対馬沖海戦百十周年慰霊祭」は、午前十時半から慰霊碑の前で行われた。
式には対馬駐留の陸海空自衛隊員が指揮官とともに出席し、
ロシア連邦のエブゲニー・V・アファナシエフ駐日大使も出席した。
式は、日露の国歌が流れるなか、両国の国旗が掲げられ、その下で黙祷をして始まった。
神道による神事が行われ、次ぎにロシア正教のロシア人の坊さんの祈祷があった。
香を焚き、それを慰霊碑にかけながら朗々と流れるロシアの祈祷を聞いていると、
この海域で百十年前に亡くなったロシア人の魂が安らいでいるのを感じた。
この五月二十七日の対馬沖海戦慰霊祭は、十年前の百周年を期して始まった。
比田勝の武末裕雄氏をはじめ地元対馬の有志が力を合わせて資金を出して百周年祭を実現させた。
私は、その時から参加させてもらっている。
その時は、海上自衛隊が掃海艇を出して海戦海域近くを航行し、私は靖国神社の御神酒を海に注いだ。
その同年、イギリスでは、トラガルファー海戦勝利二百周年に当たり、
エリザベス女王陛下がお召し艦に乗船してイギリス艦隊を観閲した。
私は、イギリスのトラガルファー海戦よりも、
なお大きく世界史を変えた日本海海戦百周年を、
日本国政府が主催し、自衛艦隊を出して勝利を祝うべきだと主張したが、政界の関心は高まらなかった。
上対馬での式典の後、夜六時半から「日本を取り戻す」という課題で講演をすることになっている博多に戻った。同じ飛行機にロシアのアファナシェフ大使とロシア正教の坊さんが乗っていたので博多でお互いに、
「スパシーバー(ありがとう)」と言い合って分かれた。
上対馬での式が終わってから、アファナシェフ大使には、
「百六十年前にロシアはクリミヤ戦争でくたくたになってアラスカをアメリカに売り渡した。
今度もクリミアでくたくたになりそうだ。
その時は、日本はロシアをサポートする。
またクリミアでロシアが疲れている隙に、
シベリアにシナ人(キターイ)がイナゴのように雪崩れ込んできて、
事実上シベリアはキターイの土地になる可能性大である。
何れにしても、ロシアをサポートできるのは日本である。
従って、ロシアは、然るべき時に、
樺太と千島を日本に返還するべきである。」
と言っておいた。
また、博多での講演冒頭に次のように言った。
「如何にして拉致被害者を救出するのか、
尖閣を如何にして守るのか、
南シナ海のシーレーンを如何にして守るのか、
アルジェリアのイナメナスで十人、ISに二人の日本人が殺された、
痛恨の極みである。
このテロリストを地球の果てまで追いかけていって報復しなければ、
日本人はこれからもテロの標的にされる。
このような、問題意識のかけらもない者達の安保法制議論を
『戦後体制内議論』という。
時間の無駄だ。」
「それにしても、安保法制審議で、自衛隊員を危険にさらすのはいけない、と質問していた馬鹿がいる。
植山さん(出席していた元陸上自衛隊中佐)、
さんざん、自衛隊は違憲だとか、軍隊ではないから出しゃばるなとか言っていた、
あいつらにだけは、自衛隊員が危険になると、さも心配しているようなことは言われたくないなあ。
自衛隊の任務、つまり国防は、危険に決まっているではないか。
従って、自衛隊員は、国に対して、
『ことに臨んでは危険を顧みず職務を遂行し、以て国民の負託に応える』
と宣誓して日頃の訓練に励んでいる。
火事を消す消防士、武器を持つ泥棒を捕まえる警察官、みな危険な仕事なのだ。
馬鹿か、そんなことも分からずに国防の議論などするな!」
西村眞悟の時事通信より。
対馬を訪れ文永十一年(一二七四年)十月六日、
軍船九百艘を接岸して上陸してきた三万の蒙古軍を相手に、
宗助国らが八十四騎で、午前四時頃(寅の刻)から午前九時頃(辰の刻)まで、
実に五時間にわたって勇戦奮闘して玉砕した西海岸の小茂田浜を訪れた。
古戦場に建つ小茂田浜神社に参拝し、浜に出て海を眺めた。
小茂田浜は、リアス式海岸の数の少ない上陸適地であるが、左右に山が迫り、陸に入れば急速に左右から山が迫ってきて平地が無くなり、山の中の川沿いの細い道だけになる。
この地形では、上陸した三万の蒙古兵は、浜にあふれてなかなか奧に進めなかったと思われる。
宗助国ら八十四騎は、山が両側から迫ってきて敵が少人数になってひしめいているところで迎撃したのだろう。
敵は、平原における戦闘にはなれているが、山岳戦は不得手であり、しかも日本の弓は蒙古の弓よりも射程が長い。
それにしても、少数で大軍を相手に五時間も奮闘する気力と体力そして機略は、驚嘆に値する。尋常ではない。しかも、宗助国はその時六十八歳である。
八十四騎で、五時間奮闘し、最後は微笑みながら突撃してきた宗助国ら日本の武士に接した敵の大将が、
「自分は、いろいろな国の敵と戦ってきたが、このような恐ろしい敵は初めてだ」
と語ったのは当然だったと思う。
四月九日、
パラオ共和国ペリリュー島で慰霊のために行幸啓される天皇皇后両陛下をお迎えする日の朝、
「日の丸」に楠木正成の誓った「七生報国」を書いた鉢巻きを頭に巻いたとき、
この元寇の宗助国から大東亜戦争までの総ての英霊が、
天皇が慰霊に来られるこの「天皇の島」に集まってきているような気がした。
それ故、この度、宗助国らの玉砕の地を訪れることができて幸いだった。
小茂田浜から山岳だらけの対馬の島を北上し、比田勝の民宿で泊まり、
翌朝、五月二十七日、
日露戦争における日本の運命を分けたロシアのバルチック艦隊と我が連合艦隊が激突した
日本海海戦の海戦海域を遙か望める上対馬西泊の丘に行った。
その丘には、連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥が揮毫した「恩海義嶠」と刻まれた大きな石碑があり。
日露両国国旗が掲げられるポールのもとに
日本海海戦における総ての戦死者、
ロシア軍四千八百三十人、日本軍百十七人
の名を刻んだ慰霊碑が建てられている。
この丘の下の海岸近くには清水のわき出る井戸がある。
バルチック艦隊の沈没した艦船ウラジミール・モノマフ号の水兵百四十三人は、四隻のボートに乗ってこの北対馬の海岸に上陸した。
疲労困憊して上陸してきた彼らを見た近所の二人の農婦が、水を欲しがる彼らをこの井戸に案内した。
そして、この地区の人びとは、彼らに食料を与え傷の手当てをし宿を提供した。
彼らは元気になり祖国ロシアに帰ることができた。
この義挙を知った東郷平八郎元帥が、西泊に「恩海義嶠」の文字を揮毫した。
世界が注目した日本海海戦(地元では対馬沖海戦という)は、百十年前の五月二十七日に行われ、
連合艦隊が偉大な勝利を得た。そして、その後の世界史を変えた。
「対馬沖海戦百十周年慰霊祭」は、午前十時半から慰霊碑の前で行われた。
式には対馬駐留の陸海空自衛隊員が指揮官とともに出席し、
ロシア連邦のエブゲニー・V・アファナシエフ駐日大使も出席した。
式は、日露の国歌が流れるなか、両国の国旗が掲げられ、その下で黙祷をして始まった。
神道による神事が行われ、次ぎにロシア正教のロシア人の坊さんの祈祷があった。
香を焚き、それを慰霊碑にかけながら朗々と流れるロシアの祈祷を聞いていると、
この海域で百十年前に亡くなったロシア人の魂が安らいでいるのを感じた。
この五月二十七日の対馬沖海戦慰霊祭は、十年前の百周年を期して始まった。
比田勝の武末裕雄氏をはじめ地元対馬の有志が力を合わせて資金を出して百周年祭を実現させた。
私は、その時から参加させてもらっている。
その時は、海上自衛隊が掃海艇を出して海戦海域近くを航行し、私は靖国神社の御神酒を海に注いだ。
その同年、イギリスでは、トラガルファー海戦勝利二百周年に当たり、
エリザベス女王陛下がお召し艦に乗船してイギリス艦隊を観閲した。
私は、イギリスのトラガルファー海戦よりも、
なお大きく世界史を変えた日本海海戦百周年を、
日本国政府が主催し、自衛艦隊を出して勝利を祝うべきだと主張したが、政界の関心は高まらなかった。
上対馬での式典の後、夜六時半から「日本を取り戻す」という課題で講演をすることになっている博多に戻った。同じ飛行機にロシアのアファナシェフ大使とロシア正教の坊さんが乗っていたので博多でお互いに、
「スパシーバー(ありがとう)」と言い合って分かれた。
上対馬での式が終わってから、アファナシェフ大使には、
「百六十年前にロシアはクリミヤ戦争でくたくたになってアラスカをアメリカに売り渡した。
今度もクリミアでくたくたになりそうだ。
その時は、日本はロシアをサポートする。
またクリミアでロシアが疲れている隙に、
シベリアにシナ人(キターイ)がイナゴのように雪崩れ込んできて、
事実上シベリアはキターイの土地になる可能性大である。
何れにしても、ロシアをサポートできるのは日本である。
従って、ロシアは、然るべき時に、
樺太と千島を日本に返還するべきである。」
と言っておいた。
また、博多での講演冒頭に次のように言った。
「如何にして拉致被害者を救出するのか、
尖閣を如何にして守るのか、
南シナ海のシーレーンを如何にして守るのか、
アルジェリアのイナメナスで十人、ISに二人の日本人が殺された、
痛恨の極みである。
このテロリストを地球の果てまで追いかけていって報復しなければ、
日本人はこれからもテロの標的にされる。
このような、問題意識のかけらもない者達の安保法制議論を
『戦後体制内議論』という。
時間の無駄だ。」
「それにしても、安保法制審議で、自衛隊員を危険にさらすのはいけない、と質問していた馬鹿がいる。
植山さん(出席していた元陸上自衛隊中佐)、
さんざん、自衛隊は違憲だとか、軍隊ではないから出しゃばるなとか言っていた、
あいつらにだけは、自衛隊員が危険になると、さも心配しているようなことは言われたくないなあ。
自衛隊の任務、つまり国防は、危険に決まっているではないか。
従って、自衛隊員は、国に対して、
『ことに臨んでは危険を顧みず職務を遂行し、以て国民の負託に応える』
と宣誓して日頃の訓練に励んでいる。
火事を消す消防士、武器を持つ泥棒を捕まえる警察官、みな危険な仕事なのだ。
馬鹿か、そんなことも分からずに国防の議論などするな!」
西村眞悟の時事通信より。