[産経抄]2月19日
産経ニュース
日本に本格的にスキーが導入されたのは明治44(1911)年のことである。新潟県高田(現上越市)の陸軍歩兵第58連隊で、オーストリアから招かれたテオドル・レルヒ少佐が兵士たちに滑り方を手ほどきした。なぜ軍隊でだったかには理由があった。
▼その9年前の明治35年1月、青森県の八甲田山麓を雪中行軍していた青森第5連隊の210人が遭難した。生還したのは11人だけ、199人が死亡するという、日本の山岳史上に残る大惨事となった。記録的な寒波の中、猛吹雪で道を失ったのである。
▼無謀とも思えるこの行軍は、実際には2年後に起きるロシアとの戦いへの備えだった。冬季、ロシアが津軽海峡や陸奥湾を封鎖し攻め込んできた場合、これと戦うには、八甲田山を通り青森と弘前などを結ぶルートを確保する必要がある。そう考えての訓練だった。
▼遭難の原因には、地元民の案内人を付けなかったことなどがあげられた。だがもうひとつ指摘されたのが兵士たちの足元だった。大半は「かんじき」をつけるか普通の軍靴だけで、想像を上回る積雪に動きが取れなかった。陸軍は「スキーをはく軍隊」の必要を感じたのだ。
▼現実にレルヒ少佐がスキーを伝授したのは日露戦争後だった。今では軍事と関係なく国民の多くがゲレンデで楽しむ時代となった。その陰ですっかり忘れ去られていた「スキー事始め」やロシアにおびえていた歴史がソチ五輪で、突然のようによみがえった。
▼レルヒ少佐にちなんで名づけられたという清水礼留飛(れるひ)選手がスキージャンプ団体戦で銅メダルを獲得したからだ。因縁めくが、ひとつ上の2位になったのは少佐の母国、オーストリアだった。日本として「恩返し」できたというべきか、どうか。