関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】
震災後覆った無政府状態。「流言蜚語」による「虐殺」だったのか?

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 大震災直後、家財道具を持って皇居前広場に避難した人たち。ほとんど無政府状態となった首都は混乱に陥った=大正12年9月

死者・行方不明者10万5千人、焼失家屋40万戸以上という被害を出した関東大震災直後の首都圏は一時、無政府状態のような混乱に陥った。その中で信じられないような事件が発生する。

憲兵大尉、甘粕(あまかす)正彦による無政府主義者、大杉栄ら絞殺事件もそうだが、震災直後には「朝鮮人虐殺」が起きた。
 
 明治43(1910)年の日韓併合以来、朝鮮人の日本への移入が急速に増える。特に大正時代になると、第一次大戦景気で商工業が発達する日本に職を求めてきたのだ。大震災直前にはその数は8万人を超えていたとされる。

 大地震から半日もたたない大正12(1923)年9月1日夕刻あたりから、その朝鮮人が「武器を持って暴動を起こし、井戸に毒を入れてまわるらしい」という「情報」が流れ出した。

 最初は横浜だったと言われるが2日には東京にも到達する。その「流言蜚語(ひご)」に惑わされた日本人たちは自警団を結成、朝鮮人と見るや集団で撲殺するなどした。その数は6千人を超える。

 と、これまで関東大震災に関する本や教科書などはそう伝えてきた。だが近年になって「虐殺」の理由やその数に疑問を差しはさむ研究も出てきている。

 中でも平成21年に発行された工藤美代子氏の『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)はこうした「通説」を真っ向から否定している。

 まず「虐殺」された人数について、当時の内務省による公表では過剰防衛で殺された(罪のない)無辜(むこ)の朝鮮人は233人だ。これが6千人超とされてきたのは、上海に亡命していた大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」の報道によるところが大きいという。

 だがその「特派員」の報告で、虐殺されたとする6419人のうち遺体が発見されなかった人が2889人に上る。しかも発見された遺体も殺害されたのかどうかハッキリしない。とても信頼できる数字ではないと指摘している。

 その上で工藤氏はさまざまな資料から、震災当時東京やその周辺に居住していた朝鮮人を約9800人と推測する。

 ところが後藤新平内務相による国会答弁によれば、自警団などの動きを見て日本政府が千葉県の習志野陸軍廠舎(しょうしゃ)などに収容・保護した朝鮮人は計6797人に上る。これと確かに殺害されたという233人を引くと残りは2700人あまりだ。

 しかも日本人の死者との対比で震災で直接亡くなった朝鮮人も約1900人と推定されるから、虐殺の対象となったのは800人前後と見る。

 工藤氏によれば、震災直後何とか東京で発行できた新聞や地方紙に、朝鮮人による集団暴行の事実を示す記事や目撃談が数多く載せられている。だから自警団らはありもしない「流言蜚語」で動いていたわけではないという。その上で、大震災の混乱に乗じ、首都で大暴動を起こす動きがあったことを強く示唆している。

 大震災から4年半前の大正8(1919)年3月1日、朝鮮で独立を求める「三・一運動」が起きた。これを機に日本の朝鮮総督府は、武力を前面に出さない「文化統治」に転じた。

 だが独立を求める動きが鎮静化したわけではない。上海の「亡命政府」を拠点に、在日の一部朝鮮人に日本人の社会主義思想家らが結びつき、日本政府を転覆させ一気に独立を勝ち取ろうという不穏な動きがあった。

 彼らはこの年の11月27日に予定されていた摂政宮(皇太子、後の昭和天皇)のご成婚の日に決起しようとしていた。だがその前に大震災が起きたため、急遽(きゅうきょ)その混乱に乗じようとした、との説は根強い。震災直後、政府が戒厳令を敷いたのも、こうした「情報」を得ていたためとも言える。

 無辜の朝鮮人まで殺害されたのは不幸なできごとだった。だが、不穏な動きが続出しているとき、人々が懸命に我が身を守ろうとしていたのも事実だ。(皿木喜久)

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大地震後に首相となった山本権兵衛。だが政治や警備の混乱は続いた



【用語解説】治安維持法

 「国体」を変革したり、私有財産制度を否定したりする目的で結社をつくり、またはこれに参加することを禁じた戦前の法律で、大正14(1925)年に成立した。
 この時代の無政府主義者や共産主義者ら、いわゆる「主義者」を取り締まるのが主眼で、日本近代史上最大の「悪法」と言われた。だが当時の政府が制定を急いだのは、ロシア革命などへの恐れのほか、1年半前の関東大震災で無政府状態に陥ったさい、混乱に対処できなかったことへの脅威や反省もあった。同時期に成立した普通選挙法とで「アメとムチ」とも言われた。