慰問袋。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。



慰問袋を囲んで

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今日は、昭和19年、テニアン島で約一万名の守備隊が玉砕した日です。
英霊に感謝と鎮魂の祈りを捧げたいと思います。


さて、「慰安婦」という言葉があります。まぎれもなく「売春婦」のことです。
なのにどうして、わざわざ「慰安婦」と呼んだのでしょうか。

売春婦たちがいる場所も、「売春宿」ではなく、「慰安所」と呼ばれました。
なぜでしょうか。
どうして売春という言葉を避けたのでしょうか。



もっとずっと昔は、売春宿のことを、遊郭(ゆうかく)といいました。
「郭」という字は、「くるわ」とも読みます。
「くるわ」は、狂わせるから、くるわです。
身分も日常も忘れて、狂い乱れる。
だから、「くるわ」です。
一夜限りの、遊び狂う場所、だから「遊郭」です。

江戸の吉原は、岡場所(おかばしょ)とも呼ばれました。
人の日常は、まるで海や川で泳いでいるかのように、手足をバタバタさせて奮闘しているものです。
手足を動かすのをやめたら、沈んでしまう。
だから誰もが必死になって、手足をバタバタさせながら生きています。
そんな日常から解放される、つまり、ちょっとした岡にあがって、ひとやすみする場所。
だから「岡場所」です。

大阪の曾根崎などが「島」と呼ばれたのも、同じ意味からです。
日本三代遊郭のひとつ、長崎の丸山遊郭も、「島」と呼ばれました。
吉原だけは、ちょっと気取って「岡」と呼んだのかもしれません。

軍人さんの慰安所だって、くるわでいいはずです。
でも、そうは呼ばない。慰安所って呼ぶ。
「慰(なぐ)さめ、安心させてくれる所(ところ)」だから、慰安所です。
連日、命がけの戦いや、そのための猛烈な訓練をしている兵隊さんたちを、安心してなぐさめてくれる所が、慰安所であり、あんしできるように、やさしくなぐさめてくれる女性が慰安婦です。
今風にいえば、「いやし」や「リクラゼーション」といった語感が、そこにはあります。

英語で書いたら、売春婦は「Prostitute」です。
けれど、慰安婦は、「Comfort women」です。
「Comfort」には、苦しみ・悲しみ・悩みなどをやわらげ元気づけるといった語感があります。

つまり、かつての軍人さんたちは、彼女たちを、ただの性処理の道具などでは決してなく、彼女たちを「人」として、たいせつな女性として見ていたということです。
世界中、どこにそんな軍隊があるのでしょう。
日本の軍人さん、やさしいですよね。

同じ、「慰」をつかったものに、「慰問袋」ってのもあります。
内地にいる小中高生たちがが、外地にいる軍人さんに、ひとり一袋でいろんなものをとどけるんです。
送るのは少年少女たち、受け取るのは、外地にいる軍人さんたちです。

この「慰問袋」は、誰の慰問袋が、どの兵隊さんに行くのかはわかりません。
物資の不足した世の中です。
中味だって、ちり紙や手拭い、石鹸、シャツや腹巻き、缶詰、赤チンなどの薬品、写真や自分で描いた絵、近所の神社でもらってきたお守り札などです。
子供たちが送るものですから、決して値段の高いものははいっていません。
けれど、心がこもっています。

その慰問袋には、送り主の住所と氏名を書いた紙を入れるのが慣例でした。
受け取った軍人さんは、贈り主ひとりひとりに、ちゃんとお礼の手紙を書くんです。
子供たちのために、です。

慰問袋は、ランダムに配られますから、誰の慰問袋が、どの軍人さんに行くかはわからないし、受け取った軍人さんは、送ってくれた子を知りません。
それでもちゃんと、いただいたからって、お礼の手紙を、心を込めて書きました。
すごいですよね。軍人さんたち、とってもやさしいです。

慰問袋は、外地にいる軍人さんたちにとって、涙がでるほど嬉しく、また楽しみなものだったそうです。
これについて、「91歳のホームページ」さんが、たいへんわかりやすい記事を書いておいでなので、ご紹介します。
http://homepage1.nifty.com/zpe0314/se2.htm

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【慰問袋】
兵隊にとって何よりの楽しみは慰問袋と慰問の手紙である。
これが内地との絆を保つ只一つの足掛かりといっていいからである。
慰問袋も最初のうちはその中身もお茶や海苔や缶詰や羊羹と豪華であり、純綿の袋に入れられていたが、年を追う毎に内地の物資不足をそのままに、するめやキャラメル、乾燥いもと内容が変わっていった。
袋も勿論人絹えと変わっていった。
しかし、中身は変わっても、兵隊にとって慰問袋は銃後の人達の温かい気持そのものであり、感謝の気持ちは片時も忘れなかった。

兵隊は実によく手紙を書いた。
暇さえあれば手紙を送った。
そして内地からの返事を首を長くして待った。
手紙を沢山出す方がその返事の数も多いこととなり、ローソク一本の明かりで、実にこまめに手紙を出したものである。
新聞もない戦地では、唯一の内地の様子を知る手段であった。
私もそうだった。
肉親や友人に、見ず知らずの慰問の主に。

わたしが貰った慰問の手紙を記して見よう。
時々刻々の内地の移り変わりを知る上に誠に好き資料と言えよう。

【慰問文集(すべて原文のまま)】
「僕は今度四年生になりました。今までちっとも勉強しませんでした。だがもう勉強をするくせをつけなくては。南ごう少佐のやうにかう空隊の大将にならうと思って居ます。だから学校に行ってわき目もふらずに一生懸命に勉強します。をじさんも御国のために一生懸命にはたらいて下さい。ではお元気でさようなら。」
 (昭和14.4.10発信いとこの子供より)

「兵隊さんおハガキどうもありがとう。お返事おそくなってすみません。私も元気です。三月二十五日には卒業しました。そしてこんどは女学校に入れました。学校の名は本郷商業家政女学校です。だんだんと夏が近くなりました。二十日に私達は歩いて遠足に行きました。目的地は二子玉川です。歩いたのは行きと帰りで、八里(32キロ)でした。又近いうちに遠足があります。」
 (昭和1.4.2発信慰問袋の人より)
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祖国を遠く離れた外地で、日々危険の中で働く兵隊さんたち。
その兵隊さんたちを気遣って、贈られる慰問袋。
その慰問袋に、丁寧に返事を書く日本のかつての兵隊さんたち。
いつ果てるとも知れない命のために、内地にいる子供たちから手紙や日用品が届くわけです。
この子たちを護ろう!
そう思う心に、ほんとうの勇気がわいてきたのかもしれません。

「慰問袋」にはいっているのは、モノです。
けれど「慰問袋」は、もっと大切な「心」を運びました。
そのやさしさに、兵隊さんたちは手紙を書いて答え、いざというときには、命を犠牲にしてでも銃を手にして戦ってくださいました。
そうしたやさしさの連鎖こそ、日本の姿です。
そして、それと同じ心が「慰安所」という名前にも、刻まれていると思うのです。

下にある写真は、有名な「日本軍の後に続いて川を渡る朝鮮人慰安婦たち」の写真です。
この笑顔をみてください。

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次の写真は、日本が統治する前の朝鮮人女性の姿です。

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同じ民族と思えないくらい、前者の表情は明るく、くったくがありません。
後者は、人生に何の夢も愛情もやさしさもなく暗くうちしおれた表情です。
同じ民族が、どうして短期間の間に、これだけ変わってしまったのでしょうか。
しかも、前者は、カネで売られた売春婦、後者は、物売りの女性です。

違いが生まれた理由はただひとつ。
彼女たちが、前者は人間として扱われ、後者はただの道具として扱われていた。
その違いです。

日本軍統治下の慰安所の女性たちを、性奴隷だという人がいます。
冗談じゃあないです。
チマチョゴリそのものが性奴隷の象徴だし、コンスなんて、奴隷の挨拶です。
それを「やめさせた」のが日本です。