有本恵子さん拉致から30年。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







「生きている間に帰ってきて」家族訴え




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有本恵子さんの帰国を待ち続ける両親の明弘さん(左)と嘉代子さん=神戸市長田区(甘利慈撮影)



 神戸市出身の拉致被害者、有本恵子さん=拉致当時(23)=が北朝鮮に拉致されてから30年を迎えた。父の明弘さん(85)と母の嘉代子さん(87)は産経新聞の取材に「拉致被害者の親はみんな高齢になっている。生きている間に解決してもらいたい」と訴えた。

 「元気に帰るためにも、向こうでしっかりご飯を食べていてほしいから」

 嘉代子さんは茶碗(ちゃわん)にご飯をよそい、おかずと一緒に食卓に並べた。北朝鮮が食糧難との報道があった7年前ほどから毎食欠かさずこの陰膳(かげぜん)を続けている。

 6人きょうだいの三女として育った有本さんは「前に出るのが苦手でおとなしい性格」(嘉代子さん)だったが、昭和57年にイギリス留学を切り出したときは違った。航空券や下宿先を自分で手配し、2人がどんなに反対しても譲らなかった。かたくなな態度についに折れ、留学を許可した。

 1年後、有本さんから帰国予定を伝えるはがきが届いた。だが、一向に帰国せず、58年10月にデンマークから「貿易関係の仕事があり帰国が遅れる」とのはがきが寄せられたのを最後に音信が途絶えた。

 安否を確認できたのは約5年後の63年9月。有本さんと同様に欧州で消息を絶った男性が第三者に託した手紙が、北朝鮮から北海道の自宅に届いた。手紙には「有本恵子君らも一緒にいる」と書かれていた。

2人は外務省や警察庁に調査を求めたが、「当人に危害があるといけない」と口外を禁じられた。その後も外務省に訴え続けたが、「国交がないので何もできない」の一点張り。国会議員にも救いを求めたが、何も変わらなかった。

 事態が動いたのは平成9年2月。新潟市内で行方不明になった横田めぐみさん=拉致当時(13)=の拉致被害の発覚だった。国会でも審議され、マスコミも取り上げるようになった。そんな中、拉致被害者家族連絡会が結成され、2人はすぐに会員になった。

 当初は街頭で署名を求めても無視されることが多かったが、12年3月に警察庁が有本さんを拉致被害者として認定し、14年10月に5人の拉致被害者が帰還すると、反応は大きく変わった。「大勢の人が署名に応じてくれた。講演にも呼ばれ、全国各地を回った。応援の手紙や千羽鶴が続々と届けられた」と振り返る。

 北朝鮮側から有本さんの「死亡」が伝えられ、ジャーナリストの田原総一朗氏からは生存を否定する発言も受けた。だが、大勢の人に励まされ、生存を信じてきた。

 北朝鮮側の説明では、今月15日に拉致から30年になる。娘の帰国を待ちわびてきた2人も80歳を過ぎ、年齢的な焦りを感じ始めている。嘉代子さんは昨年末から通院する機会が増えた。医師からは不整脈と診断され、外出する頻度も減った。「恵子が再び日本の土を踏めることを願っている。生きている間にもう一度、会いたい」。明弘さんは「今は健康だが、いつどうなるか分からない。なんとか早期解決してほしい」と力を込めた。