【忘れ難き偉人伝】秋山好古(上)
秋山好古・真之兄弟生家跡にある好古の銅像=松山市歩行町
大正13(1924)年4月7日午前7時前、松山の私立北予中学校の校門前で生徒が知らない男が笑顔で会釈していた。
「あの愛想のええ、変なおやじはだれぞな」。生徒たちはささやき合う。7時45分、講堂に集められた生徒たちは壇上に上がった新任校長を見て仰天する。さきほどのおやじだった。
「おはよう、生徒諸君。私が今度、校長になった秋山好古だ。私は前校長から2つの宝物を預かった。ひとつは若き鳳凰(ほうおう)である諸君たちであり、もうひとつはその若鳥を育て上げる巣箱であるこの校舎だ。私はこの2つの宝物をさらに磨き上げ、お国への報恩感謝の標(しるし)としたい」
学校は歩兵第22連隊に隣接しているため、軍人は見慣れているが、連隊長でも陸軍大佐であり、将官を見る機会もない。まして日露戦争の英雄で、陸軍大将だった秋山好古(1859~1930年)の突然の帰郷は周囲を驚かせた。
好古は同9年12月、教育総監を任命された。陸軍将兵教育の最高職で師範学校出身の好古らしい陸軍最後のお役目だった。同12年3月末、予備役となる。
翌年の正月、北予中理事で伊予鉄道社長の井上要が好古邸を訪れ、校長就任を要請する。当時、北予中は経営も行き詰まり、地元での評判も芳しくなかった。
「国家の大計は人づくりにあります。官立の松山中学校には成績優秀な者しか入学できず、学の志あるおちこぼれが生じます。それをすくいとって、国家のお役に立てる人材に育てるのが本学の建学の精神であります」
どうしてもと言う井上に対し、好古は一言だけ言った。
「こんな老いぼれで役に立つんなら、何でも奉公させてもらうよ。欧米では高官が退職後に社会貢献するのは当たり前になっておる。日本人は少し地位を持って辞めると恩給で遊んで暮らそうという輩が多いが、わしはそういうのは好かん」
この時、好古65歳。校長在任は6年3カ月に及び、その間、一日も休むことはなかった。好古の校長就任で北予中の雰囲気は一変する。
(将口泰浩)