◆父昭二さんの思い出
西岡 せっかくの機会ですから、お父さんはどんな人だったのか。中学生、小学生の時にお別れになっていますが、思い出をお話ください。
寺越昭男 私が一番上なので、記憶は一番持っていると思うんですが、それでも少ないです。というのは、子どもの頃は父親は九州とか東北に漁に出ていました。イカ釣りですね。するめイカなどをとりにいっていました。3か月とか半年に1回しか帰ってこなかったんです。だから小さい時の思い出はほとんどないんです。
たまにお土産にラジオを買ってくれた思い出があります。当時ラジオは貴重品だったのかな。りんご箱にいっぱい、するめを持ってきてくれたとか、そういう断片的なことですね。
何を悪いことをしたのか知らないけど、丸太ん棒を持って追いかけられた記憶があります。悪いことをした記憶はないんですが、追いかけられました。
事件の1年くらい前、親父と二人で銭湯に行った思い出があります。それくらいしかないんです。小さい時、どこかに遊びに連れていってもらった覚えもないですし。ただ、周りの人に言わせると、親父は、「外面(そとづら)がよくて内面(うちづら)が悪い」(笑)というタイプの人間で、昔の人間は皆そうだったのかなと思いますが、どんな父親であれ突然いなくなり、人生が大きく変わったというのは間違いないと思います。
北野政男
兄貴は親父の記憶はあまりないと言いましたが、私の方がもうちょっとあるかなと思います。
親父はものすごく表面(おもてづら)がいい。そして手先がずいぶん器用だった。子どもの頃、祭りの神輿を作って、色を塗って、人にあげた。これくらい(小さい)。
それと、家の周りにはサボテンがいっぱいありました。段にしていました。行った先で珍しいサボテンを持ってきて、並べて、お母さんに叱られて。そのサボテン、親父がいなくなったら、少し減り、少し減り、なくなりました。
家には井戸がなかった。隣までお母さんが毎日水を汲みにいく。隣は母屋、寺越の本家だったので、そこにも汲みにいく。亡くなる半年か1年前、家の背戸に井戸を掘って、業者に掘ってもらったんですが、それが遺作です。それからいなくなったので。
その遺作の井戸に小さい小屋を建てて、そこを私たちが出るまで使っていました。武志や3人がいなくなる前までは、3人もちょくちょく親父の船で漁に出ていっては、近くに岩場があるんですが、すもぐりでカキやサザエをとってきた記憶もあります。
兄貴よりまだまだ記憶の量が多いのですが、それを話すと1時間くらいかかるので、この辺でやめておきます(拍手)。
内田美津夫
私はまったくありません。小学校の時、事故の年か次の年か分かりませんが、バス旅行というのがあり、親父たちが船で網を仕掛けてあったところへ港があります。福浦港というのがあります。そこから遊覧船が出ていて、みんなで乗って、花束を投げた記憶があります。ここは親父が死んだところということだっただろうと思います。
そして段々記憶が薄れていったと思います。行方不明になったり、陸(おか)の上でいなくなったのなら、いつか会うことがあるかもしれませんが、死んだということで本当に記憶は一つもありません。
北野政男
さっき親父は手が器用だと言いましたが、折り紙もさかんに作っていました。それを武志は多分知らないと思います。友枝さんはよく知っています。私たちよりも知っていて、折り方も見ている筈です。
こういう折り紙を武志が昭二から教わったとして、生前の証拠として出してきていますが、これも方便です。これは色紙です。当時の北朝鮮にこういった色紙がどれだけあるのか。簡単に入手できるのか。これを売って生活の糧としていたと武志は言っていますが、当時の紙質は、ここに外雄さんからの手紙の紙質がありますが、わら半紙のちょっと厚めのものです。
こんな時代に、美しい千代紙が人に売るだけ簡単に入手できるのか。できません。私も行ったことがないので断定はできませんが。ですから、買う人もいなければ、紙も集まらないでしょうから、これも方便です。
◆外雄叔父さんの思い出
西岡 外雄さん、叔父さんのことで何か覚えていらっしゃることはありますか。
寺越昭男 外雄叔父さんのことはほとんど覚えていないですね。
内田美津夫 病気がちだったということも知らなかったですし。
北野政男 外雄叔父さんの記憶に関しても私の方が少しあると思います(笑)。外雄叔父さんは中学を卒業して、東京の方に仕事に出てきていた。そして帰ってきて間もないんです。1年か2年か、身体を悪くして帰ってきています。だから記憶がないのも当然なんです。
しかし、海に行ったら、親父と外雄さんと漁に行く準備をしたり、正月だったか盆だったか、3人に少し小遣いをくれた。家に来て親父とよく話をしていたり。私たちは子どもだから横についているわけはありませんが、来たという記憶はあります。
もう一つ、寺越友枝さんは、家の母とはものすごく仲が良かった。どちらもお嫁さんで年頃も近かった。失踪前までは。親の兄弟のうち何人かは外に出ていきましたが、それでも姑、舅が何人か残っていた。そういう中で暮らしていたものですから、色々生活面でぶつかりあう。それを家の母のところに来ては愚痴をこ
ぼして、憂さをはらしていた。そういう意味で仲が良かった。毎晩のように来ていました。
◆墓に骨はなく、誕生日は間違っていた
西岡 皆さんのところに、大口英夫さん(救う会石川事務局長)が作られた「寺越昭二さんの墓の嘘」という資料があります。つまり、殺人なのか病死なのかということが真相究明の対象の一つですが、事実として昭二さんが北朝鮮に上陸したことを示す物証は一つもありません。
外雄さんと武志さんは北朝鮮で撮った写真があります。ご家族もいるわけです。しかし、昭二さんが北朝鮮に上陸したということは、北朝鮮が言っていることです。口で言っているだけです。
そして、我々からすれば、武志さんはそう言わされているのではないかと疑わざるをえないわけです。物証が何もないんです。あるとすればこの墓です。ここに骨が入っていれば、射殺されて海に捨てられたんじゃなく、病死ということになりますが、この墓も大変怪しいということについて大口さんから解説をお願いします。
大口 皆さんこんばんは。資料にあるこの写真は寺越友枝さんが北朝鮮から持ってこられたものです。3兄弟に渡されたものです。お墓に書いてあります昭二さんの生年月日が間違っていたというものです。生きていたのであれば、間違える筈がないじゃなかと訴えてきました。ですから何の証拠でもない。
安明進さんが、昭二さんが船の上で射殺されたという事実を、一生懸命北朝鮮が否定しようとやっきになってきました。そして友枝さんにメッセンジャー的なことをさせてきており、今日までそれが続いている。
西岡 遺骨だというものを北朝鮮から貰いましたが、骨が入ってなかったですね。
寺越昭男 二度目の訪朝の時だと思うんですが、その時、お墓の土を持ってきた。遺骨ではなく。遺骨は防疫上よくないということで土を持ってきたと友枝さんは私に説明してくれました。
お墓まで行ったのなら、少しでも遺骨を持ってくればいいのにと、当時はそういう思いをしていました。なぜそういう工作をしなければならないか。私は後で気がついたんですが、嶋崎譲さんが書いた『再会』の本の中でも、父親は「5年間北朝鮮で生きていた」と。
最初に北朝鮮に入った時に、北朝鮮の取調官に、「自分たちは在日の帰国民である」と嘘をついたということです。「在日の帰国民」というのは、当時は在日の帰国運動があり、日本人妻を含め在日の方が何万人も北に渡っています。その中の一人と取調官に言ったと書いてあったそうです。
武志と外雄さんは北朝鮮の国籍を取得し、親父は日本人のまま北朝鮮の国籍を取らなかったとも書いてあります。そういうのを見ていくと親父はなぜ取らなかったのかと思います。普通に考えるとおかしな話です。3人なら3人一緒に取るだろうし。また、「日本人のまま死んだ」と書いてありました。
墓のことですが、武志が2002年に帰国した時に、私が少し話す時間があったので、お墓の話をした。私は、父親が「日本人のまま死んだ」ということが気になっていて、「墓には何と書いてあるんや」と武志に聞いたら、「自分の名前を書いてある」という。「死んでもおらんのになんで自分の名前を」と聞いたら、そこに友枝さんが来て、「ここはそういう話をする場所ではない」と。歓迎会の席だったので。
その話を、武志についてきた監視役の二人が多分聞いたと思うんですね。
西岡 そこについて聞きたいんですが。武志さんは2002年10月に、朝鮮職業同盟の訪日団ということで日本に戻ってきたんですよね。その時、監視役の人が歓迎会の席にもいた。その時、歓迎会にはたくさんの親戚がいて、そこに、昭男さん、政男さん、美津夫さんも出ていたわけですね。
寺越昭男 その歓迎会の席は、寺越家の人間は私だけでした。というのは、友枝さんの方から拒否されていて、私は友枝さんの妹さんがやっているニットの工場に働いていましたので、その工場の一員として歓迎会に出ていたんです。
西岡 じゃあ直接話ができたのはその歓迎会の時だけですか。
寺越昭男 そうです。あとは会っていない。その時に話したわずか1、2分の結果がこれなんです。
西岡 お父さんは日本国籍のまま亡くなったのに、なんで墓には朝鮮名が書いて
あったのかと。
寺越昭男 そうそう。墓には何て書いてあるのかと聞いたんです。寺越昭二と書いてあるのか、朝鮮名なのか、それを知りたかったんです。そしたら自分の名前を書いてあると言うので、死んでもいないのに自分の名前を書いた。そしたら友枝さんが来て、ここではそんな話はするな、と。
西岡 「自分の名前」というのは武志さんの名前ですか。
寺越昭男 そうです。そのやりとりを北朝鮮の監視役が武志から聞いたと思うんです。それで武志が帰って2週間後に武志の妹さんが北朝鮮に行って、持って帰った写真がこの写真です。
西岡 新しいコンクリートの墓ですね。
寺越昭男 作って1週間も2週間も経ってないような墓です。行ってすぐ作ったことはすぐ分かります。友枝さんに、「えらい新しい墓やね」と聞いたら、「武志が偉くなったから古い墓では何やから、新しい墓に作りかえたんや」と、そういう言い訳をしていました。
後で気がついたんですが、誕生日と死亡日が続けて書いてあります。「1927.3.30生まれ 1968.3.30死亡」と書いてありますが、親父は3月31日生まれです。誰かが間違った記憶を教えたんだと思います。
西岡 外雄さんと武志さんがいたわけで、13歳で連れていかれた武志さんより、外雄さんが聞かれて、うろ覚えだったのか、意図的に一日ずらして教え、何かのメッセージを発しようとしたのか。特に墓を作ると言われた時に、違うことを入れて違うんだと言おうとしたのか。
寺越昭男 外雄叔父さんはもう亡くなっていないんです。友枝さんが間違った記憶で教えたのではないかと思っています。間違っているということが、親父が北朝鮮に渡っていない一つの証になると思っています。
◆15年前の半年間、寺越友枝さんは「武志は拉致」と運動
西岡 ありがとうございました。今日、大臣は、石川県で現場を見たいと、そしてまた地元の救う会が集会をするならばそこにも参加したいという話がありましたが、石川県における救出運動の現状と今年その集会ができるかどうかについて大口英夫さんからお願いします。
大口 今から15年前に寺越友枝さんは、寺越事件は拉致といっていました。そう訴えた時期がありました。『現代コリア』に、寺越武志さんも北朝鮮で亡くなったと書いたものを見て、友枝さんが『現代コリア』に電話をかけて文句を言った。
それから前の救う会事務局長だった荒木和博が、3人の方が北朝鮮に行ってまだ一人生きているということであれば、ほったらかしの状況は大変なことだと、15年前に荒木さんが石川県に来られました。
それで、「この問題に取組むのにお前も協力してくれ」ということで、寺越友枝さんと半年間、毎日一緒にいました。その半年というのは、増元照明さんなど家族会の皆さんと一緒に行動した半年でした。
その時、寺越友枝さんの家族は北朝鮮が怖いと、ステージ上で私が武志さんの写真を持って立ったりしていました。そして武志さんも拉致だと訴えました。その間、武志さんの戸籍が回復されました。
この半年間は、私も武志さんが殺されるんじゃないかと思っていました。荒木さんが友枝さんに言ったのは、「拉致だと訴えたら殺される確率も高いですよ、と。殺されるかもしれません。だけどもしっかりと武志さんを表に出してきて、武志さんの身の安全が保障されるようになるのも確率が高いですよ」と。お母さんは、当時はそれに賭けました。
そして戸籍が回復して、いよいよ表舞台に武志さんが出てきました。そして、「私は労働組合の副委員長で大変いい生活をしている」と、報道で表に出てきました。
次は武志さんの一時帰国で動くんですが、そこ辺りから友枝さんは、家族会とか救う会と距離を置くようになりました。私とも距離を置くようになりました。そして皆さんご存知のように今日まで至ります。
友枝さんは、「武志は拉致ではありません」と今日まで言っています。北朝鮮を訪問した回数はもう65回。
他方、武志さんと一緒に失踪した寺越昭二さんの3人の息子さんは、「親父は拉致に違いない」と言うわけですが、安明進さんの証言では「船の上で射殺された」と。武志さんの話では、「救助されて北朝鮮で生活していたが亡くなった」、と。一緒に失踪した叔父さんの外雄さんは向こうで生存していたことが確認され
ています。
そして今日まで、こちらは拉致だと言うけれど、友枝さんは拉致ではないと。これのやりとりで大変ややこしかったです。失踪した日が5月12日です。今年で50年目。拉致認定を求めるということで参りましたが、西岡さんがこの間、5月12日に石川県に来られました。
そしてこれからは、政府に対して拉致認定を求めるのではなくて、「寺越事件の解決なくして拉致問題の解決はない」と大臣から言っていただこうということで本日になりました。
大臣は、「石川県で集会があれば私も行く」と。そして、「寺越事件の現場と宇出津(うしず)事件(久米裕さん拉致)の現場を見る」と。これまで1回も、大臣が石川県に来て現場を見ることはありません。しかし、来てくださると明言してくださいました。
そういうややこしい寺越事件なものですから、石川県の政治に携わっている皆さんも対応が困るんです。動いたらまた友枝さんからお叱りの電話がかかってきたり、私もどれだけ怒られたか分かりません。なかなか政治も動きませんでした。
私は以前は市会議員、今は県会議員ですが、昨年、ちょうど1年前、自民党の県議会でも拉致議連を作らなかったら大変だぞと、昨年から作る方向で動いています。今日の大臣の言葉をもって県議会に戻り、早々に拉致議連を作ってくださいとお願いをしようと思っています。
そして石川県で政府が主催する集会を、なるべく早いうちに開催できるように頑張りたいと思います。そして大臣には、寺越事件の現場、宇出津事件の現場に来ていただきたいと思います。本当に今日はいい日になったと思います(拍手)。
(4につづく)
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