東京大学名誉教授・小堀桂一郎
主権国家の「実」を示し、誇る日に。
政府は来る4月28日の対連合国平和条約発効61年目の記念日に、我が国が米軍による軍事占領といふ亡国的事態を脱却し、独立の国家主権を回復した歴史を記念する式典を、政府主催で挙行する旨を決議し、公表した。正式には「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」と呼ぶ由である。
≪被占領期の悲哀を語り継げ≫
平和条約発効の日付を以て主権回復記念日とせよ、との聲(こえ)は早い時期から揚つてゐた。少くとも、筆者を含む少数の草莽(そうもう)の有志が「主権回復記念日国民集会」の開催を呼びかけて実行に移した平成9年4月以来連年、筆者は本紙のこの欄を借りてその意義を訴へ続けてきた。
本年は運動を始めてから満16年、集会は第17回である。集会開催の主目的は、4月28日を「主権回復記念日」の名で国民の祝日とすべく祝日法の一部改正を求めるといふものだつた。
もちろん、休日を一日ふやす事(こと)が目標なのではない。
辛うじて戦中派の世代に入る発起人一統が、被占領期に体験した数々の敗戦国民の悲哀の意味を、それを体験してゐない後の世代の人々に語りつぎ、その記憶を分有してもらひたい、そして国家主権を他国に掌握されてゐるといふ屈辱的事態、又(また)その悲劇を専ら条理を尽しての外交交渉によつて克服し得た、この事績の貴重な意味を考へるよすがとしてもらひたい、といふのがこの運動を始めた最初の動機である。
≪「4月28日」を祝日にせよ≫
この目的のためには、主権回復記念日の祝日法制化が有効であり、本年一回限りとされてゐる政府主催記念式典は必ずしも国民運動の要請の本命ではない。
然(しか)し、運動を始めた当初の、国家主権とは何か、といふその理解から説き起してかからざるを得なかつた、当時の空気を思ひ出すと、16年目にして漸(ようや)くここまで漕ぎつけ得たか、との呼びかけ人一同の感慨は深いものがあり、政府主催の式典挙行には率直に歓迎の意を表しておきたい。
ところで、この式典の開催を素直に喜ばない一部の世論があることも既に周知であらう。
即(すなわ)ち沖縄県の地元メディアを代表とする一団の反政府分子からの異議申し立てである。記念日制定を呼びかける集会を毎年開催してきた私共とても、沖縄県からの集会参加者を通じ、あの形での平和条約発効といふ事態に対し、地元には深い失望の念があつたといふ事実はよく聞かされてゐた。
只(ただ)その不満の聲は、それから20年間の同じく辛抱強い外交交渉の成果として昭和47年5月に沖縄県の祖国復帰が実現した、その大前提である昭和27年の史実に対する認識不足乃至(ないし)は意図的な軽視の所産なのではないかとの印象を禁じ得なかつた。
認識不足は深く咎(とが)めるには当らない。沖縄県の復活が20年遅れたのは、当時の国際社会にとつての深刻な脅威であつた米ソ間の所謂(いわゆる)冷戦の余殃(よおう)であつて、この間の複雑な因果関係を明白に説明する事は、国際関係論の専門家にとつてもさう簡単ではないと思はれる。
それに現在の若い世代にすれば、1950年代の冷戦激化時代の世界的緊張の空気は直接の体験に裏付けられた記憶となつてはゐない。それは被占領期の屈辱的事態の伝聞が彼等(かれら)にとつて現実にさほど痛切にはひびかない事と余(あま)り違はないであらう。
≪妄想だった「全面講和論」≫
だが意図的な軽視・無視となると、これは明らかに歪(ゆが)んだ政治的下心の産物である。その文脈での「沖縄は取残された」との差別への怨(うら)みの聲に接すると、図らずも思ひ出す昔話がある。
それは平和条約の調印が現実の日程に上つてきた昭和25年1月頃から左翼知識人の一部が高唱し始めた「全面講和論」の妄想である。いまこの空疎な政治論の発生と末路までを辿(たど)り返してみる紙幅の余裕はないが、時の吉田茂首相がその主唱者を「曲学阿世の徒」と指弾したのも尤(もっと)もな、言ふべくして行はれ得ない事を敢へて言ひ立てる「ないものねだり」の幼稚な立論だつた。
平和条約それ自体が一種の片務的な不平等条約であり、全国民が心から納得し歓迎できる様(よう)なものでなかつた事は慥(たし)かである。だがその不満からこの条約の提案を受容しなかつたとすれば、それは敗戦国としての主権喪失状態になほ甘んずる事態の方を選択するといふ錯謬(さくびゅう)に陥る。
講和会議に招請されなかつた二つの中国、条約に調印しなかつたソ連等共産主義体制の3箇(か)国を取洩す形で連合国48箇国との間に平和条約は締結された。
その判断が我が国の国際社会への復帰を可能にし、廃墟(はいきょ)からの再生と、やがての今日の繁栄を築く礎石となつた。
この教訓を思ひ起し、先づはこの祝典を肯定し支持したい。その姿勢を踏まへて、独立主権国家としての強国の実を示す事が、国際社会、特に東アジアの安全保障に対しての大いなる寄与となる事に思ひを致すべきである。
(こぼり けいいちろう)