【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(1)
大津事件 もう一つの顔
旧東海道沿いに立つ大津事件の碑。ニコライ皇太子はここで襲われた =大津市京町2
■募るロシアへの警戒心
滋賀県大津市は日本一の湖、琵琶湖の南岸に位置する。市内には有名な瀬田の唐橋や紫式部が「源氏物語」を書いたとされる石山寺がある。京都に近いこともあってこの季節、観光客で賑わう。
その大津市のほぼ中央、滋賀県庁近くの旧東海道の民家軒下に小さな石碑がたっている。「此附近露國皇太子遭難之地」とある。
明治24(1891)年、日本を訪れていたロシアのニコライ皇太子が、警衛の警察官に斬りつけられるという「大津事件」が起きた場所なのである。
この年の4月末長崎に到着したニコライ皇太子はその後、神戸から京都を経て5月11日、船で琵琶湖遊覧を楽しんだ。その後県庁に向かう途中、津田三蔵という元武士の警察官にサーベルで斬りつけられたのだ。
皇太子の傷は浅くてすんだ。だがこのとんでもない事件に日本中が震え上がった。
ロシアと言えば当時、世界有数の軍事力を誇る大国だった。その将来の皇帝である皇太子を傷つけてしまった。ロシアが本気で報復に出たりすれば、まだ近代化の途上にある日本など、ひとたまりもないからだ。
明治天皇が直ちに京都へ行幸、皇太子を見舞う。ロシアに謝罪使の派遣を検討もした。しかし皇太子はこの後、東京へ向かう日程をキャンセルし日本を後にする。
ロシアの報復を恐れる日本政府は、津田に刑法の皇室への罪を適用、死刑にしようとした。これに対し大審院長、児島惟謙(こじま・いけん)はこの政府の圧力を退け「皇室罪は外国の皇族には適用できない」と、無期徒刑の判決を下した。
このため現代では「大津事件」と言えば、児島が司法の独立を守ったことだけが強調される。
その陰で意外と知られていないのが、ニコライ皇太子が日本を訪れたいきさつであり、当時の日本を取り巻く国際情勢である。皇太子は実は日本海に面した沿海州の都市、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道の起工式に臨席するための旅の途中だった。
前年の10月、首都ペテルブルクを鉄道で出発、オーストリアのウィーンを経てアドリア海のトリエステから軍艦に乗る。この情報を得た日本がロシア側と交渉、途中での日本訪問が実現したのだ。事件の後、皇太子はそのままウラジオストクに入り、予定通り起工式に臨席している。
同じロシアの欧州とアジアとを結ぶシベリア鉄道の敷設はこの国の悲願だった。シベリアの開発ばかりでなく、その先の満州(中国東北部)や朝鮮半島にまで権益を拡大するには鉄道が必須だったからだ。1850年代から計画され、ようやくこの年、西側のチェリャビンスクと東のウラジオストクの双方から工事が始まった。皇太子とは別の船で千人を超える作業員が向かっていたという。
日本にすれば、これは脅威だった。地図を開けば分かるように、ウラジオストクから陸続きに200キロも南下すれば、もう朝鮮半島である。シベリア鉄道が開通すれば、この半島は早晩ロシアの支配下に置かれるかもしれない。半島が落ちれば次は日本である。
西欧の強国の力がアジアにも押し寄せる植民地主義時代に生きた日本人なら誰もが抱いた危機感であった。ロシアと戦う力などないと自覚する日本政府は「友好」を育むべくニコライ皇太子を日本に招いたのだった。
だが一般国民は、もっと強い恐怖感をもって受け止めていた。吉村昭氏の『ニコライ遭難』によれば、皇太子一行の来日の目的は遊覧ではなく、軍事偵察のためではないかという風評が広まっていた。いずれシベリア鉄道を使って日本を攻略するための一歩だというわけである。津田もその影響を受けていたのかもしれない。
いずれにせよ日本は、朝鮮半島やその北の満州をめぐるロシアへの脅威から「富国強兵」策を進める。それが日清、日露両戦争や日韓統合などにつながっていくのである。(皿木喜久)
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【用語解説】シベリア鉄道
ロシアのモスクワとウラジオストクとを結ぶ全長9000キロ余りの鉄道の通称。このうちウラル山脈以東のシベリア横断部分は1891年、ウラジオストクとチェリャビンスクの東西2方向から着工した。アムール川沿いの現在の路線が完成したのは1916年だが、ロシアは途中のチタから満州を横断してショートカットする東清鉄道の建設を清国に認めさせ、1903年、いちはやくロシアの欧州と極東が結ばれた。