日本のアニメーション。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。




東京国際アニメフェア2013に思う


草莽崛起:皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ。 




 3月21日から24日まで、お台場の東京ビックサイトで「東京国際アニメフェア2013」が開催されました。
テレビなどでご覧になられた方も多かったかと思います。

今年で12回目を迎えたこの祭典は、「日本のアニメーションを世界に発信し、商取引の場を」という東京都知事・石原慎太郎の提案により開催されたフェアで、国内の新しい取り組みを求める企業間の異業種交流の場となっているだけでなく、世界各国からのバイヤーが訪れるビジネスの架け橋ともなっているものです。

米国やフランスの日本アニメ贔屓は有名ですが、それだけでなく、いまではアフリカや中東などでも、日本アニメは大ブームだといいます。

アフリカから政府を代表して来場したある政府高官は、「日本アニメは子供達の健全な成長のために欠かせない、24時間日本アニメを放送するチャンネルを作りたい」と語るなど、その関心の高さは、目を見張るものがあります。


海外で人気のアニメ・シリーズといえば、「ドラゴンボール」、「機動戦士ガンダム」、「美少女戦士セーラームーン」、「ワンピース」、「犬夜叉」、「NARUTO -ナルト- 」、「幽☆遊☆白書」、「北斗の拳」、「キャプテン翼」、「新世紀エヴァンゲリオン」などが有名で、さらに宮崎駿の映画版の「となりのトトロ」、「天空の城ラピュタ」、「風の谷のナウシカ」なども、もはや世界的現象といえるほどに、世界中の少年から大人たちまでに、強い文化的影響を及ぼしています。

また、世界のクリエーター達の最先端を行くハリウッドでも、「世界的ヒット作を作りたいなら日本アニメに学べ」が、いまではすっかりクリエーター達の一般標語になっているといいます。

実際、ハリウッドの近年の大ヒット作の「アバター」は、宮崎アニメのラピュタの世界をモチーフにしたといいますし、またディズニーアニメの「ライオンキング」が、手塚治虫の「レオ」との競作になっているなどということも、すでに有名な話です。

それにしても、なぜ日本アニメが、これほどまでに世界の人々の心を揺り動かしているのでしょうか。

絵がきれい、もちろんそれもあるかもしれません。
ストーリーの面白さ、もちろんそれもあるでしょう。
主役が敵を倒す時の爽快感もあるかもしれません。

けれど、それがなぜ日本アニメなのか。
海外の文学やマンガになくて、日本にあるもの、それはいったい何なのか。
海外でヒットする日本アニメや日本のマンガに共通しているそのファクターは、何なのか。

実は、世界でヒットしている日本アニメには2つの共通したプロット(=plot、枠組み、構成)が、共通した底流をなしている、ということです。

ひとつは、
「対等な関係にある仲間たちと、支配と隷属の関係にある敵キャラ群」という設定になっているということ、もうひとつは、
「すべて主人公達の成長の物語」であるという点です。

もちろん物語ですから、主人公はいます。
それはセーラームーンであったり、北斗の拳のケンシロウであったり、あるいは幽幽白書の浦飯幽助であったりするのですが、その主人公キャラは、必ずひとりではありません。
彼らには、かならず仲間たちがいます。

そして面白いことに、その仲間たちの中には、たとえば格闘ものであれば、主人公よりもはるかに強いキャラもいたりします。
こういう点は、たとえば旧来のアメリカンヒーローの、スーパーマンやバットマンにはなかったプロットといえます。

また反対に、格闘ものでありながら、まるで弱いキャラも一緒にいたりします。
主人公が戦いに勝って傷だらけで帰ってきたとき、たとえばそこには気の強い女の子キャラがいて、「あんた、なにやってんのさ!」などと言って、主人公をペシッっとひっぱたく。
それで(強いはずの)主人公が簡単にやられてしまう。
そういうシーンが、あちこちにでてきます。

また、主人公にとって、先生といえるようなキャラもいるのですが、非常におもしろいのは、主人公のグループ(仲間たち)は、強い者も、弱い者も、師匠も弟子も、腕っ節の強弱や経験の差異はあっても、それらがすべて、「人として対等な関係」にある、という点です。
ですから彼らは、互いに助け合い、いたわりあい、そして互いが互いを信頼しぬいている。

こうした主人公達のグループが戦っている相手、つまり敵キャラ群は、実にそうした主人公グループと好対照を見せています。
それが何かというと、敵キャラ群は、例外なく、上下の支配と隷属の関係にある、ということです。

悪の帝王のような者がいて、それに隷属する敵キャラが、民衆を奴隷として使役したり、人々を苦しめたりする。
そうした上下の支配と隷属の関係を基軸とする敵キャラに対し、主人公のグループは知らず知らずのうちに戦いに巻き込まれ、これらを打ち破ります。

もう少し述べると、敵キャラは、ほぼ全キャラが、命令によって主人公の仲間たちを襲います。
それが自らの意思である場合も、上下関係の中における出世欲であったり、上下関係の中での優位性の証明をするためであったりします。

そして敵キャラの勢力や組織は、共通して支配者があり、部下たちはその支配者に対する隷属者として描かれます。
そして多くの一般民衆は、その支配者たちによって強制的に隷属させられています。
極端なものになると、みずからの意思を持つことさえも許されない。

そして多くの場合、長編もののアニメやマンガでは、最後にその支配者となっているボスキャラと主人公が対決し、これを倒します。

これは実におもしろい対比といえます。
個性はあっても対等な仲間という横の関係を大切にする仲間たちが、支配者によって隷属させられた人々を救うために立ち上がり、これを打ち倒す。

要するに、海外で大ヒットしている日本アニメや、日本のマンガに共通していることは、
1 対等な関係の仲間たちという主役グループが、
2 上下関係と支配と隷従という関係の敵グループと
3 戦い、勝利する物語
という共通項でくくることができる、ということです。

「対等」という関係は、西欧的共産主義などにみられる「平等」とは異なります。
没個性に、みんながただただ一緒、というのではないからです。

「平等」と「対等」の何が違うかというと、答えは簡単です。
運動会のかけっこで、順位をつけたらいけないからと、全員を一等賞にするのが平等です。
あいつは勉強はできるけど、運動会のかけっこでは、俺が一等賞だい!というのが対等です。
古来、日本では「対等」であることを重んじてきました。

アニメキャラたちは、敵、味方ともに、ひとりひとりが強烈な個性を主張します。
そしておもしろいことに、敵キャラは、ひとりひとりがその強烈な個性によって上下関係を築いているのに対し、味方キャラたちは、その個性を仲間として互いに活かしあいます。
つまり、結束の仕方が対等になっています。

個性が、支配と隷従や上下関係のために用いられるのか、それとも個性が仲間たちの役割分担に用いられるのか。
この二つは、似ているようでいて実はまったく異なるものといえます。

西欧においては、人は神のもとに平等であると説かれます。
平等といっても、それぞれに個性はあります。
そもそも人間、生まれたときから不平等です。

だから、平等だと言われればいわれるほど、逆に個性を主張したくなる。
そして強烈な個性のもとに、自由をもとめようとし、結果として、人々はその強烈な個性のもとに、隷属させられてしまう。支配されてしまう。

こうしたフラストレーションに対し、日本アニメやマンガは、実に爽快な解消案を提示しているわけです。
すなわち、個性が仲間たちの役割分担にもちいられ、そして仲間たちは、皆、対等に付き合うという回答です。

かつて、西欧においては、支配者は神の名のもとに人々に絶対的支配権を持ちました。
その支配権は、単に王による支配というだけでなく、その王に隷従している高官や将軍たちは、やはり自分の部下に対して、同様に支配と隷従を求めます。
そして上に立つ者は、下の者に対して、ありとあらゆる収奪や暴行が許される。
そして下の者は上に対して、抵抗することが許されない。
こうして、社会の隅々までが、支配と隷従という関係によって構築されてきたわけです。

これに対する民衆の抵抗が、自由を求める民主主義を応答となりました。
けれど、民主主義だ、自由主義だといいながら、実は、社会の中に、支配と隷従という関係は色濃く残っているし、また、一方で神のもとに平等だといって個性を圧迫されるという社会構造上のフラストレーションが、残っているわけです。

これが支那や朝鮮になると、もっと悲惨です。
つまり西欧にある「神のもとの平等」がないのです。
あるのは、支配と隷従だけです。

ですからたとえば支那では、幼いころから「どんなに親しい友人であっても「一緒に井戸をのぞくな」と教えられます。
上下関係のない親友なら、なおのこと、上下関係がない分、井戸に落されてしまう危険が濃厚だからです。

さらに朝鮮では、親は子に対して、どんなことをしてでも、とにかく「人の上に立て」と教えます。
下にいたら、収奪されるばかりなのです。
逆に上に立てば、ありとあらゆる贅沢が許される。
だから、手段方法を問わず、上に立つことだけが、常に人々の人生の目的となります。
そして上になれば、ありとあらゆる支配が許容されると考えますから、昨日まで部下だった者が、今日から上司になれば、その瞬間からまさに「手のひらを返した」ようになる。

世界中の多くの国々が、こうして上下の支配と隷従と言う関係から抜け出せずに四苦八苦してきたなかにあって、日本は、すくなくとも7世紀には、天皇の民、公民という概念を社会制度上に明確に築きました。

じつはこれは人類史上画期的ともいえるものすごいことで、本来であれば王や豪族の私有民である庶民(私有民であるということは、モノと同じ動産であるということ、つまり奴隷と同じということです)が、王や豪族の権威に認証を与える天皇直下の民である、という体制なのです。

これがどういう効果を及ぼすかというと、民衆は、天皇という権威の存在によって、豪族たちの私有民(=隷属者)となることを逃れ、天下の民、人として、権力者と対等な民である、ということになるわけです。
ですから日本には、古来、人間を動産として扱う、奴隷という制度がありませんでした。

そして民が、天皇の民、天下の民ですから、その民への政治を司る政治的権力者は、その民を、天皇から預かるという立場になります。
ですからいっけん支配者のように見える権力者も、みんなの意見をよく聴き、みんの気持ちを代弁しなければならなくなる。
つまり、人として対等な関係になる、という社会構造をもたらしていたわけです。

もちろん、身分の違いはあります。
教師と生徒、大名と部下、番頭さんと手代さんでは、その権限は異なります。
けれどその違いは、あくまで役割の違いであって、人としては対等だ、というわけです。

よく民主主義といいますが、民主主義といっても、こうした権威と権力の切り離しがなければ、民主主義によって選ばれた権力者の横暴を防ぐことはできません。
なぜなら権力者は容易に支配者になれるからです。

これに対し、日本が産んだ社会の仕組みは、「皇民主義」です。
民がすべて最高権威の天皇の民となることで、民は支配と隷従から逃れることができた。
いいかえれば、究極の民主主義が、まさに「皇民主義」であったということになろうかと思います。

こうした皇民思想は、戦前までの日本では、いや戦後も昭和40年代くらいまでは、日本社会において「空気のようにあたりまえ」のものとして定着していました。

ところがだんだんに、戦後教育を受けた世代が社会の中心をなすことによって、天皇のありがたさを忘れ、忘れるというよりも、天皇の存在そのものをただの「制度」だと決めつけ、天皇を否定する論調が日本社会で支配的になってきました。

そうなると何が起こるかというと、民衆は支配者にただ隷属するだけの存在に堕ちてしまうわけです。
もともと、人として対等な関係が認められていた日本社会において、支配者による隷属だけが求められる社会構造は、多くの日本人からは、きわめて不本意で理不尽な社会構造に感じられます。
つまり、それは社会的ストレスになる。

ですから日本アニメは、そうした社会的ストレスの受け皿として、むしろ「対等な仲間たち」という、かつての日本なら、空気のようなあたりまえの日本的関係を、そのままプロットしてきたわけです。

これは実におもしろい皮肉です。
左翼が天皇を否定し、民衆を隷属させようとすればするほど、自由と対等を願う民衆のエネルギーが爆発し、日本を描く日本アニメが、日本のみならず世界的に広がるという結果をもたらしたわけです。

日本のように、天皇という権威の存在を持たない世界の人々は、長く支配と隷属の関係だけの社会の中に住んでいました。
それしかない、それがあたりまえと思っていた世界の民衆に、なんと日本アニメは、隷属なんてありえない、俺たちは人として対等なんだ!という理念をもたらしたわけです。

これは世界中の若者たちにとって、まさに驚天動地の出来事です。
日本アニメが、世界中の民衆から絶賛を浴びるのも、無理からぬことです。


日本アニメのもうひとつのファクターである「成長の物語」というものも、これまたかつての日本社会では、空気のようにあたりまえの常識となっていたプロットです。

それが何かというと、古事記や日本書紀に描かれる日本神話です。
イザナキ、イザナミといえば、日本神話に出て来る最初の男女神ですが、この二人は、はじめに出会ったときに、ちょっとした失敗をしでかして、結果、蛭子(ひるこ)というクラゲのような子を作ってしまいます。
そしてその失敗の教訓をもとに、もういちどやり直して、今度は立派な子を産みます。

神様なのです。
神様ならば、完全不可欠、絶対無二の存在であるはずなのですが、その神様でさえ失敗する。
そしてその失敗を教訓に、努力して最後には本当に立派な神となる。

アマテラスも同じです。
弟のスサノオにイジメられて岩戸に篭ってしまう。
これは、現代社会でいえば、いわば「ひきこもり」です。
そんな気弱な神様でも、いろいろな経験を経て、最後には立派な日本の最高神となられています。

オオクニヌシは、因幡の白ウサギの物語の頃は、オオナムチと呼ばれるいまで言ったら「パシリ」君です。兄達の荷物を担がされ、兄達のはるか後方を、荷物を担ぎながら、やっとの思いでついていっています。
そんなオオクニヌシが、数々の試練にあって、最後は大いなる国の主となる。

日本の神々の物語は、このように、すべて成長の物語です。
はじめから完全な人間なんていません。
仕事をしはじめても、最初馴れないうちは、いろいろな失敗がある。

ところが最近の世間の風潮は、新人が失敗すると、すぐに「あいつは使えない」とレッテルを貼りたがる。
かつての日本では、失敗するのはあたりまえ、そこから何を学び、成長するかが問われていました。
それがいつのまにか、失敗したら「使えない奴」というレッテルに代わってしまっています。

神様じゃあるまいし、最初から立派にソツなく全部できる人なんていません。
たまたま失敗がなかったとすれば、その人はたまたま運がよかっただけか、あるいは仕事をしているフリをしていただけで、実際には仕事をしていなかったような場合だけ、です。

何かをすれば、必ず問題はおこり、失敗もあります。
にもかかわらず、失敗したら「使えない」とレッテル張りをするのは、これは理不尽というものです。

なんでもかんでも欧米のものが進んでいると考え、日本に古くからあるものを「田舎臭い」とか「古い」といって見下し、日本社会全体が欧米に「かぶれ」た結果、日本社会は「ストレス社会」となり、結果、そのストレスが「アニメ」の中で、主人公達が、失敗しても失敗しても、戦いに敗れても敗れても立ち上がり、成長していく物語に、自己投影をして、それを絶賛する。

そんな中で産まれたのが、まさに戦後の日本アニメでもあったわけです。

そんな日本アニメは、戦後教育世代の大人達からみれば、タワゴト、であったかもしれません。
けれど、そんな日本アニメの成長の物語が、海外では、まさに日本初の目からウロコがはがれ落ちる素晴らしい物語として大絶賛されます。

なぜなら、欧米では、神が最初から完全無欠な唯一絶対神であるのと同様、ヒーローは生まれながらのヒーローであるはずだったからです。
ところが、そのヒーローが、はじめのうちは、ぜんぜん強くない。
その強くないヒーローが、仲間たちとともに励ましあい、強敵にさえも打ち勝って行く。
つまり、「成長」していく。
そうした人間の「成長」を認めるという思想が、日本社会のあたりまえの伝統的思考であったわけです。

それが、いつのまにか、人を使い捨てにする社会へと日本が変貌してしまった。
人の成長を認めず、何かひとつでも欠陥があれば、使えない奴、問題児として企業ないから抹殺しようとする非情な社会となってしまっています。

野口英世などもそうですが、際立った能力のある者というのは、際立った欠陥を持つものです。
何事も平均点という人は、ソツはなくても能もない。
明治のはじめ、わずか23歳の生年に総額1千億の琵琶湖疎水工事を任せた日本社会は、いまや粗探しをしては人の足を引っ張ることしかできない狭量な社会になっています。

かつて日本にあって、いまの日本になくなっているもの。
日本人のDNAに刻まれていながら、否定されている、そういう「人は成長する」ということを、実は日本アニメは、アニメという虚構世界の中で、実に見事に表現しているわけです。

ですから「成長の物語」は、日本人にとっては「なつかしさのある物語」であり、海外の人々にとっては、カルチャーショックの激震のある物語となっているわけです。

私たち日本人は、はたしていまのような社会を、理想の日本と考えているのでしょうか。
おそらくはそうでないはずです。
ならば、日本を取り返すしかない。
そしてそこには、リスクを恐れず挑戦して行く、まさに日本アニメのような人材が、いま、求められているのかもしれません。

そうそう。今回の東京国際アニメフェアのために来日した、ある米国人が言っていました。

「日本は、こんなにすばらしいアニメの名作をたくさん排出しているのに、どうして日本のテレビ局は、子供達のゴールデンタイムの時間枠に、アニメの放送をしていないのですか?」

どうしてなんでしょうね。



※本文に関する補足として
日本における「対等」という概念は、西欧的共産主義などにみられる「平等」とはまるで異なるものです。運動会のかけっこで、順位をつけたらいけないからと、全員を一等賞にするのが「平等」です。あいつは勉強はできるけど、運動会のかけっこでは、俺が一等賞だい!というのが「対等」の概念です。日本は、神のもとの「平等」の国ではなくて、天皇によって人々が「対等」に暮らす国という、世界史上希有な国家国民を築いてきた国です。