西岡 力ドットコム より。
日本政府が北朝鮮
が日本人を拉致していることを最初に知ったのはいつか。私は拉致問題に関して講演するたびにこの質問をしているが、今まで1回も正しい答えを聞いたことがない。正解は「事件直後から知っていた」、である。1977年、78年当時、警察庁警備局で北朝鮮
工作員の日本への不法侵入を取り締まる実務を担っていた元幹部が、自分が日本人が拉致されていることを最初に報告したとして読売新聞に驚くべき告白をしている。
読売新聞平成14年12月20日夕刊に「[検証・拉致事件
](1)「北」の犯行、24年前確信」という見出しで掲載された匿名インタビューだ。少し長くなるがいまだにこの重要な事実を知らない人が多いので、私の解説付きでほぼ全文をする
〈「実は二十四年前も、何とか事実を公表できないかと考えたのだが……」。警察庁の元幹部(69)は、苦い記憶を振り返る。四件のアベック拉致・拉致未遂事件があった一九七八年当時、警備局の中堅だった元幹部は、おそらく日本で最初に「北朝鮮
による連続アベック
拉致」を確信した人物だ。
「特異事案
その一週間ほど前から、東京・霞が関の警察総合庁舎に泊まり込んでいた。警察の無線傍受施設が、日本海の真ん中で、北朝鮮の工作船が発したと見られる電波をとらえ、各県警に「沿岸警戒活動」を指示していたからだった。
やはり警戒活動中だった同月三十一日、今度は新潟県柏崎市で蓮池薫さん、祐木子さんが行方不明になった。「海岸近くで」「若い男女が」「家出する理由がないのに失跡した」。机の上に積まれた二冊の報告書を前に、元幹部は背筋に寒いものを感じた。
さらにその翌月、鹿児島県で市川修一さん、増元るみ子さんが失跡。富山県高岡市でも、アベック
拉致未遂事件が起きた。〉
「警察の無線傍受施設」とは何か。1960年代以降、北朝鮮
は工作船を使って日本に工作員を不法に入国させるという事件を頻繁に起こした。それに対して警察は海岸の警備を強めていた。工作員は北朝鮮の基地から工作船で日本近海まで運ばれ、そこから子船に乗り移って海岸に接近し、ゴムボートや水中スクーターなどを使って上陸、脱出を行っていた。その際、北朝鮮の基地と工作船と日本に侵入している工作員の3者が無線で連絡を取り合っていた。警察はその無線を傍受する施設を全国に持っていて、北朝鮮の工作活動を監視していた。
昭和38年、秋田県能代市で3人の工作員の水死体が発見されるという事件があった(能代事件)。彼らは拳銃、偽造運転免許証、ドルなどとともに無線機を携行していた。その無線機はジャックノイズ特殊無線機だった。ジャックノイズとは鉄琴を早くこすったような音だ。通常の速度で聞くと短い雑音にしか過ぎない。受信した側がゆっくり再生して意味を解読する。拉致が行われたときには、北朝鮮の基地と工作船と工作員の間の無線のやりとりに一定の規則性があったという。
当時の警察庁警備局外事課には課長が警視長で50代、その下に筆頭課長補佐の理事官が1人、警視正、4人の課長補佐、警視がいた。課の中に係が置かれ、
1係 ロシア
、2係 中国
、3係 朝鮮、4係 事件、5係 戦略物資 A班 ココム B班テロ関係物資カネ、6班 庶務、8係「ヤマ」と呼ばれた無線傍受施設をそれぞれ担当していた。4係の課長補佐が8係も見ていた。8係は70年代末から80年代頃、100人くらいが所属していて、毎日3から4交代で無線を傍受し担当言語を聞いていた。
〈警察の無線傍受施設が、日本海の真ん中で、北朝鮮の工作船が発したと見られる電波をとらえ、各県警に「沿岸警戒活動」を指示していたからだった。〉これは以下のシステムのことを指している。
8係が無線傍受により北朝鮮工作船が近づいてきたことを知ると、警察庁から船が来ている地域の警察本部外事課に極秘で指令が出て、海岸を警備していた。その指令を「KB(コリアンボート)警報」と言っていたという。78年末はKB警報が鳴りっぱなしで、そのため、この幹部は〈一週間ほど前から、東京・霞が関の警察総合庁舎に泊まり込んでいた。〉というのだ。
この読売の記事に出てくる幹部とは8係の技官ではないかと推定されている。