【決断の日本史】1867年11月8日
「王政復古」構想の立役者
文政8(1825)年9月、下級公家の堀河家に次男が誕生した。幼いころから利発で、14歳のとき岩倉具慶(ともやす)(家禄150石)の養子になった。岩倉具視である。和歌や蹴鞠(けまり)に明け暮れる公家が多い中で政治に関心を持ち、鷹司(たかつかさ)政通に才覚を認められた。
政通は関白を30年以上つとめた実力者で、妻は水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の姉だった。具視はこの人脈を通じて幕府や海外の事情に精通していった。
彼の力が最初に認められたのは、安政5(1858)年3月の下級公家88人による列参(れっさん)だった。厳しい身分制度で発言の場がなかった彼らを代表して、「日米修好通商条約の勅許」に反対を表明したのである。
当時、具視は孝明天皇の近習(きんじゅう)を務めていた。こののち天皇の信頼を得て、公武合体のため皇妹・和宮の降嫁でも辣腕(らつわん)をふるった。しかし、親幕とみなされて蟄居(ちっきょ)を命じられ、文久2(1862)年夏から約5年間、洛北岩倉村で隠棲(いんせい)を強いられた。
具視は明治天皇の即位に伴って慶応3(1867)年、ようやく赦免された。薩長同盟や大政奉還など時代は大きく動いていた。11月8日、朝廷に再出仕し、「王政復古の大令」案を奏上(そうじょう)する。天皇を中心に広く議論して政治を行う国家構想だった。
版籍奉還、軍隊設置、廃藩置県…。明治初期の激動期を、岩倉は右大臣として12歳年下の太政大臣・三条実美と協力し乗り切った。最大のパートナーは大久保利通であった。
「さまざまの人の意見を調整できる能力と、決断力とをともに備えた人物が岩倉でした。彼がいたおかげで、日本は封建国家から近代国家へ平和的に移行できたといっていい」
『岩倉具視』(吉川弘文館)などの著書のある佐々木克(すぐる)・京都大学名誉教授は高く評価する。
(渡部裕明)