【決断の日本史】1005年12月29日
就職で挫折、5カ月引きこもり
就活シーズン。スーツ姿の学生を見ると、「幸多かれ」と願わずにはいられない。目指す職に就けても、仕事や人間関係の難しさが待っている。『源氏物語』の作者、紫式部が初出勤でつまずき、5カ月もの間、自宅に引きこもったエピソードを紹介したい。
式部が一条天皇の中宮(ちゅうぐう)・彰子(しょうし)の女房として出仕したのは、寛弘(かんこう)2(1005)年12月29日(寛弘3年説もある)だった。彰子の父親で、ときの左大臣藤原道長の強い要請だった。
このころ式部は30歳前後。4年前に夫の藤原宣孝(のぶたか)を亡くしていた。生活に困窮するほどではなかったが、幼い一人娘を抱え、実家の父や弟の出世のためにも道長の頼みは断れなかった。
彼女に期待されたのは、彰子の相談役兼家庭教師であった。数年前から書き始めた『源氏物語』が評判を呼び、深い漢文の素養を持っていることも併せて白羽の矢が立てられたのだ。
気が進まない出仕でもあり、初日から同僚の女房たちと気まずい雰囲気になった。式部はなまなかな男性以上の才を持っていて誇りが高く、協調性に欠けていたのである。
わずか数日で、出勤できなくなってしまった。「心の病」であろう。同僚のとりなしで何とか職場に顔を出せたのは、5カ月後のことだった。
山本淳子・京都学園大学教授(国文学)は『私が源氏物語を書いたわけ』(角川学芸出版)の中で、このときの式部の決断を次のように書く。
「鬱陶(うっとう)しい女房たちとも仕事上、顔を突き合わせなくてはならない。その時はどうするか。私はひそかに“惚(ほ)け痴(し)れ”を実行した。ぼけてもののわからない人間を演じきるのだ」
式部はこうして新しい職場になじんでいった。道長の援助も得て『源氏』の執筆も進んだ。彼女の知恵を、若い就活生にも贈りたい。
(渡部裕明)