今日は衆院選の日です!!
選挙に行きましょう!!
行って、日本を取り戻しましょう!!
そして天の岩戸を開きましょう!!!
自民党参議院議論の西田昌司先生の応援団である「週刊西田」が突然のアカウント停止になったのだそうです。
このことについて、西田先生がご自身のビデオレターで抗議声明を発しておられます。
本日の記事の末尾に、その動画を張りますので、是非、みなさまにもこの動画をご覧いただきたいと思います。
西田先生には、こうした妨害工作に打ち勝ち、是非、活動を益々燃焼させていっていただきたいと思うのですが、今日、私が申上げたいのは、その妨害工作そのもののことではなく、西田先生が攻撃を受けることになった一因である、「国民主権」についてです。
いま、ニコ動で、主権在民で検索すると、西田先生と西部先生のお話の動画がヒットします。
その中で、主権在民についての議論がなされているのですが、そこで言われていることは、国民主権というのは、単に国民であるということだけで無差別に神から与えられているようなものでは決してなくて、私達のご先祖が、私たちの国を造り、築き、それを代々にわたって守ってきた、その相続権としての権利である、ということです。
これは実はとても大切なことです。
ちょっと考えてみていただきたいのですが、いまここにひとりの日本人がいるということは、その人は、父と母から、産まれたから、ここに生きているわけです。
そしてその父と母は、やはり同じく、父と母、つまり祖父母から産まれています。
父と母、それぞれに、父と母がいるわけですから、祖父母は4人います。
で、その祖父母にも、やはり父と母がいます。
つまりその人数は、
1人(自分)
2人(父母)
4人(祖父母)
8人(曾祖父母)
16人(曾々祖父母)
32人
64人
128人
256人
512人
1,024人
と、計算上増えて行きます。
仮に一世代が25年とすると、100年で4世代、500年で20世代です。
では、その20世代前のご先祖が何人いるかというと、52万人です。
さらに700年前になると、1億3千万人になります。
つまり、あなたと直接血のつながったご先祖が、700年前には1億人いて、いまあなたの隣にいる人のご先祖も、700年前には1億人以上いた、という計算になるわけです。
700年前といえば、鎌倉時代です。
けれど、鎌倉時代の人口は、約700万人しかいません。
昔の日本の方が、人口は少なかったのです.
これが何を意味するかといえば、あなたも、そのお隣の人も、同じご先祖を共有しているというこなのです。
日本列島に人が住み着いたのは、いまから10万年前と言われています。
3万年前には磨製石器が生まれ、日本が一国となったのは、いまから2700年前のことです。
鎌倉時代よりも、さらに二千年も古い大昔のことです。
ということは、私達日本人は、ご先祖を共有する仲間たちだ、ということです。
日本人というのは、そういう民族なのです。
そしてもっと大切なことがあります。
あなたと直接血のつながる、何代にも連なるそのご先祖の中で、誰か一人でも、もしこの世にいなかったら、いまのあなたは、存在しない。
たったひとりでもいなければ、あなたはこの世にいないのです。
つまり、私達がいまこの世に生を受けているのは、代々続くご先祖様が、しっかと私達の国を護り、命をつないで来てくださったからだ、ということです。
つまり国民主権というのは、その日本を大切に護り、育むという義務を前提にしている、もっといえば、日本人が日本という国の持つ、歴史、伝統、文化を、きちんと後世に伝え、守り、残すという国民としての義務のもとに、存在する権利であるということです。
さらにいえば、権利というのは、もともとは「Right」の和訳語です。
そして「Right」には、正義の実現という意味があります。
私達の権利というのは、あくまで社会正義を立てるという思想と行動の上に、保証されているということです。
ですから福沢諭吉は、「Right」を権利と和訳することに反対しました。
意味からすれば「通理」と訳するほうが、語感が正しいとしたのです。
国民主権、主権在民というのは、「国民が何をしてもいいという神から与えられた特権」などでは決してありません。
そんな解釈を日本人がしているとわかれば、それこそ日本人は世界の笑い者です。
そうではなく、日本人がご先祖が守り抜いてきた私達の国を、しっかりと守り抜く決意と自覚と行動をとり、私達国民のひとりひとりが、日本社会に日本人としての正義をしっかりと打ち立てること」それが、主権在民という言葉の持つ、本来の意味であると、私は考えます。
西田先生は、そうした本来の意味を取り戻すための議論を、国民の間に起こそうとしておいでのわけです。
いいかえれば、そうした先生の言動を、たとえいかなる理由であれ、中傷し、貶めようとする者は、すなわち日本人の敵である、ということです。
日本人の敵なら、日本に住んでいただく必要はない。
そのような危険人物は、日本にいられたら、迷惑です。
ここは、誰一人として欠けることのない日本人の生命の連鎖によっていま存在する日本という国なのですから。
その中で、主権在民についての議論がなされているのですが、そこで言われていることは、国民主権というのは、単に国民であるということだけで無差別に神から与えられているようなものでは決してなくて、私達のご先祖が、私たちの国を造り、築き、それを代々にわたって守ってきた、その相続権としての権利である、ということです。
これは実はとても大切なことです。
ちょっと考えてみていただきたいのですが、いまここにひとりの日本人がいるということは、その人は、父と母から、産まれたから、ここに生きているわけです。
そしてその父と母は、やはり同じく、父と母、つまり祖父母から産まれています。
父と母、それぞれに、父と母がいるわけですから、祖父母は4人います。
で、その祖父母にも、やはり父と母がいます。
つまりその人数は、
1人(自分)
2人(父母)
4人(祖父母)
8人(曾祖父母)
16人(曾々祖父母)
32人
64人
128人
256人
512人
1,024人
と、計算上増えて行きます。
仮に一世代が25年とすると、100年で4世代、500年で20世代です。
では、その20世代前のご先祖が何人いるかというと、52万人です。
さらに700年前になると、1億3千万人になります。
つまり、あなたと直接血のつながったご先祖が、700年前には1億人いて、いまあなたの隣にいる人のご先祖も、700年前には1億人以上いた、という計算になるわけです。
700年前といえば、鎌倉時代です。
けれど、鎌倉時代の人口は、約700万人しかいません。
昔の日本の方が、人口は少なかったのです.
これが何を意味するかといえば、あなたも、そのお隣の人も、同じご先祖を共有しているというこなのです。
日本列島に人が住み着いたのは、いまから10万年前と言われています。
3万年前には磨製石器が生まれ、日本が一国となったのは、いまから2700年前のことです。
鎌倉時代よりも、さらに二千年も古い大昔のことです。
ということは、私達日本人は、ご先祖を共有する仲間たちだ、ということです。
日本人というのは、そういう民族なのです。
そしてもっと大切なことがあります。
あなたと直接血のつながる、何代にも連なるそのご先祖の中で、誰か一人でも、もしこの世にいなかったら、いまのあなたは、存在しない。
たったひとりでもいなければ、あなたはこの世にいないのです。
つまり、私達がいまこの世に生を受けているのは、代々続くご先祖様が、しっかと私達の国を護り、命をつないで来てくださったからだ、ということです。
つまり国民主権というのは、その日本を大切に護り、育むという義務を前提にしている、もっといえば、日本人が日本という国の持つ、歴史、伝統、文化を、きちんと後世に伝え、守り、残すという国民としての義務のもとに、存在する権利であるということです。
さらにいえば、権利というのは、もともとは「Right」の和訳語です。
そして「Right」には、正義の実現という意味があります。
私達の権利というのは、あくまで社会正義を立てるという思想と行動の上に、保証されているということです。
ですから福沢諭吉は、「Right」を権利と和訳することに反対しました。
意味からすれば「通理」と訳するほうが、語感が正しいとしたのです。
国民主権、主権在民というのは、「国民が何をしてもいいという神から与えられた特権」などでは決してありません。
そんな解釈を日本人がしているとわかれば、それこそ日本人は世界の笑い者です。
そうではなく、日本人がご先祖が守り抜いてきた私達の国を、しっかりと守り抜く決意と自覚と行動をとり、私達国民のひとりひとりが、日本社会に日本人としての正義をしっかりと打ち立てること」それが、主権在民という言葉の持つ、本来の意味であると、私は考えます。
西田先生は、そうした本来の意味を取り戻すための議論を、国民の間に起こそうとしておいでのわけです。
いいかえれば、そうした先生の言動を、たとえいかなる理由であれ、中傷し、貶めようとする者は、すなわち日本人の敵である、ということです。
日本人の敵なら、日本に住んでいただく必要はない。
そのような危険人物は、日本にいられたら、迷惑です。
ここは、誰一人として欠けることのない日本人の生命の連鎖によっていま存在する日本という国なのですから。