市丸利之助と少年兵。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【消えた偉人・物語】硫黄島「ローソク岩」の光景。




時は大東亜戦争末期の頃のことである。サイパン玉砕後、米軍は自在に日本本土の爆撃を可能とする硫黄島の奪取をもくろむ。

 これに対しわが方は、10代の少年兵を含む2万余の守備隊が絶海の孤島に結集し、島に網の目のように地下壕(ごう)を掘って迎え撃つ。かくて、米軍がほんの数日で占領可能とした硫黄島を36日に及んで守り続けて壮烈な戦死を遂げた。

 ここに紹介するのは、数少ない硫黄島決戦の生存者の一人、松本巌(いわお)上等兵曹が書き残した、海軍司令官の市丸利之助少将と少年兵の哀切のシーンである。

 米空軍の来襲に備えていた頃、松本がローソク岩と呼ばれる周辺を通りかかったとき、少年兵たちの歌声が聞こえてきた。邪魔しては悪かろうと反対側に迂回(うかい)したところ、岩陰に市丸司令官が目を閉じて腰を下ろしているではないか。

 驚いて挙手の礼をとり立ち去ろうとすると、市丸司令官は「シーッ」と口に手を当てて松本を招き寄せた。並んで腰かけていると、少年兵たちが唱歌「故郷の空」を歌う声が流れてくる。

 夕空晴れて秋風ふき

 月影落ちて鈴虫なく

 おもえば遠し故郷の空

 ああわが父母

 いかにおわす

 松本はこの光景を「司令官の閉じた眼から涙が一つ頬を伝って流れる。鬼神かと思われた司令官の涙。私もつい涙にむせんだ」と伝えている。

退路を断ち硫黄島死守に立ち向かった少年兵は、ただひとえに遥(はる)かかなたの故郷に生きる父母を護(まも)るために艱難(かんなん)辛苦の硫黄島生活を送っていたのである。歌人でもあった市丸司令官はその彼らの心情を痛いほど感じ取っていたに違いない。

 一昨年の8月、筆者は航空自衛隊の硫黄島基地隊研修会に出講した折、ローソク岩を訪れる機会に恵まれた。ジャングルのなかの短い地下壕をくぐり抜けると、鼻先に巨岩が立っていた。飲み水はスコールに頼るほかなかった島である。筆者は持参した太宰府の名水を岩肌に注ぎ、しばし鎮魂の誠をささげた。--少年兵の皆さん、ありがとうございました、と。


                           (中村学園大学教授 占部賢志)


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 


少年兵がおりにつけ集まったという硫黄島のローソク岩(筆者撮影)