【決断の日本史】1336年8月17日
■弟・直義「毒殺説」は虚構?
栃木県立博物館の特別展「足利尊氏」(25日まで)に、1通の文書が展示されていた。建武3(1336)年8月17日、尊氏が自ら筆を執り京都・清水寺に納めた願文(がんもん)である。
「この世は夢のごとくに候(そうろう)」と始まる文書には「自分は出家したい。果報は(1歳下の同母弟)直義に与えてほしい」との願いが記されている。
尊氏はこの年の5月、「湊川の戦い」で楠木正成を破って天下の覇権を握った。2日前には、北朝の天皇として光明(こうみょう)天皇を即位させている。「わが世の春」だったはずである。
ところが、尊氏の心は晴れなかった。彼は躁鬱(そううつ)気質で、このときはひどい鬱の状態だった。宗教心の篤(あつ)い尊氏は本心から、出家して弟に権力を手渡そうとしていたのである。
しかし、尊氏は隠遁(いんとん)しなかった。代わりに、直義に自分の権限の一部を委ねた。冷静で理性的な直義と、清濁を併せ呑(の)む器量を持つ尊氏。対照的な性格の兄弟が手を携えている間はよかったが、それぞれには配下の武将が集まり、溝は深まっていった。
観応(かんのう)元(1350)年、対立は決定的となる。「観応の擾乱(じょうらん)」である。2年後の観応3(1352)年1月、2人は薩●山(さったやま)(静岡市)で干戈(かんか)を交え、尊氏が勝利する。寺に幽閉された直義は2月26日、急死してしまう。
南北朝の動乱を描く『太平記』は「直義は尊氏によって毒殺されたという噂がある」と書く。研究者も多くが毒殺説だ。しかし、峰岸純夫・東京都立大学名誉教授(日本中世史)は次のように指摘して反論する。
「直義は長年の激務から劇症肝炎を発症し、亡くなったと考えられます。清水寺への願文からもわかるように、尊氏と直義の間には温かい兄弟愛があり、それは最期まで変わらなかったと思うのです」(渡部裕明)
●=土へんに垂