中山成彬オフィシャルブログ・立て直そう日本~この国を守る覚悟を~ より。
講師
宮崎公立大学理事
長友武先生
演題
「日本人の心」
皆さんこんばんは。只今から私は中山塾長先生にも負けないくらいのファイトで楽しい話、また涙が出る話、日本人とはどういう民族であるかという話を突っ込んでお話したいと思います。
最近言われる言葉に、国際化とかグローバリゼイションとか、世界の中の日本とか、そういうことをよくマスコミも政治家の先生方も言われます。私は大学に入る時に国文学にするのか英文学にするのか随分と迷いました。しかし私はやはり日本人だから日本文学を一生懸命研究してみたいと思いました。大学時代楽しかったのは好きな国文学の勉強ができることでした。大学の側の喫茶店で一日中本を読んだりしておりました。大学の正規の授業にはあまり出ず、自分の好きな文学の世界に没頭していました。大学紛争の時代でしたから、喫茶店だけが安らぎの場所で図書館も大学封鎖されて入れませんので自分の下宿と喫茶店を行ったりきたりするような大学生活でした。
私は国文学をずっと研究してみて、日本人というのは、素晴らしい民族であると思っています。1300年前に万葉集は作られています。宮崎は古事記編纂1300年というのをやっておりますけど、それから後にまとめられています。万葉集は各地に残された歌を大伴家持という、越中の知事をしていた人が全部編纂したんです。中には天皇の歌から下はお百姓さんの歌まで約4500首まとめられております。ですからおそらく世界の中で初めての国民歌謡なのです。4500首の20倍位の歌が残されていて、その中から選んだわけです。
私が今日資料として提示した、巻の20に防人という人達の歌があるんです。防人というのは防ぐ人と書いて、農民兵士のことです。名もないお百姓さんたちが急に兵隊に行きなさいといわれて行った人達の歌がこの歌なんです。1300年前の日本人の考え方と、昭和万葉集という、昭和に講談社から出された約17巻の本にある、戦争未亡人の歌とか、子供を戦争で亡くした親の歌とか、思い出深い歌には共通点があるのです。万葉集秀歌、これはハンディーな、旅行なんかにも持ちやすいんですけど、その前は、万葉集の原本といいますか、万葉集の代匠記、分厚い本を持ってウロウロしていた時代があったわけです。それほど万葉集は国民に愛されて読まれています。私はその巻の20の防人たちの歌や古代の万葉集と、昭和に出された万葉集から兵士達、昭和の防人達の歌を選び出しましてその比較を長い間研究してきました。日本人の心はそこにあるような気がするんです。
最初の歌は、万葉集の歌で、「大君の命かしこみ出でくれば吾ぬ取りつきて言ひし子なはも」という防人の歌です。これは防人の兵士がお父さんなんですね。子供が二、三人いるわけです。天皇の命令で、兵隊にいかなければならない。しかし、自分に抱きついて、お父さん行かないでと泣く子供のことが心配でなりませんと、すなわち公に対する義理と私的人情の中での苦しみが分かる歌です。
防人とはどういう人達かというと、福島県に勿来(なこそ)という町があります。ここは昨年の原発の事故に近い所で、勿来の関という所があるんですが、芭蕉の「奥の細道」にも出てきます。これ以上は行けません、「な来そ」というのは来てはいけませんよという、「な~そ」という、これ以上北には行ってはいけませんよというわけです。すなわち北のほうにはアイヌを中心にした異族がいるわけですね。ですから命が危ない、だから勿来の関というのは、その辺が奈良の王朝が支配した北限なんです。南の方はだいたい都城から熊本県境あたりが境で、それよりも南には、私の先祖でもあるんですが、薩摩隼人という絶対権力に服従しない民族がいて、奈良の王朝が派遣した県知事を公開処刑しております。困ってしまった中央の奈良の政府は、大宰府を作るんです。その主な目的は薩摩隼人の鎮圧、大宰府の長官の仕事は薩摩をいかにやっつけていくか、薩摩征伐の為の役所でもあったわけです。
そういう現実があったわけですよね。それで、急にお百姓さんが招集されて行かなければならないわけです。「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つわれは」、今日からは妻や子供のことは考えない。天皇の強い楯となって自分は出征しますという防人の歌です。私の伯父は中国戦線に行ったんですが、この歌をノートに書いて持って行っておりました。この歌は天皇の軍隊になって自分は頑張るんだという強い決意を歌った歌です。「わが妻も絵に描きとらむ暇(いとま)もが」例えば今日召集令状が来て、明後日か明々後日に行かなければならないという短い時間に若い二人は別れを惜しむわけですね。ですからわが妻を絵に描き取るだけの暇もがと、愛する妻を充分に絵に描き取るだけの時間があったらなあと。「旅行く吾は見つつ偲はむ」というのは、旅行く私は岩陰で妻の似顔絵を見て偲べるのになあと言ってる訳です。今の時代は携帯に写真が残せますからとても便利がいいんですが、この時代の人はそういう風に愛する妻のことを考えておったということがわかる訳です。
次の歌は「唐衣袖に取りつき泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして」。母のことを万葉集ではオモと呼ばせています。オモは古代の朝鮮語です。ですから唐衣袖に取りつき行かないでと泣く子ら。これは最初の歌と同じように、お父さんに抱きついた子供を振り切って自分は防人に来ました。私の家には子供達のお母さんであり私の妻は死んでいない、だから心配で心配でならないというお父さんの気持が歌われています。次の歌は「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず」。私の夫に赤紙がきて、私たち夫婦はとまどっている。防人に行くは誰が背というのは一体どこの夫、万葉集では背は必ず夫です。夫から妻のことを言う場合はイモ、妹のイモ、愛する妻という表現をしております。「誰が背と問う人を」というのは井戸端会議なんかで無責任におしゃべりをしている人を見るのが「ともしい」というのはジェラシーを感じると、腹が立つと、自分の愛する夫にきて、自分たちは悲しみに暮れているのにという歌がこの歌です。
1300年前の我々の先祖である日本人の感じてきたことは何ら私達とは変わりません。次の歌が昭和万葉集という、私は永遠の名著だと思うんですが、なぜか講談社はこれを印刷してないんです。いろんな人達の歌が入っております。その中にシベリア抑留兵士の人達の歌があります。終戦後、約5、60万人の男性がシベリアに連れ去られてその一割が亡くなったり、栄養失調とか強制労働とか精神的な鬱状態になって自殺した人もおりますが、その抑留兵士が歌った歌です。中村泰助さんという人が歌った歌が「新米を飢えたるわれに炊き給ふ母を夢見て夜半に泣きたり」。夜、お母さんが自分に新米を炊いてくれる夢を見た、お腹が空いているからもうたまらないわけですね。食べようと思ったら夢だった、夜中に泣きましたという歌です。隣の歌は「シベリアの奥地に夢見し我が妻を帰りてみれば弟の妻」。間違った戦死の知らせが家族の元に届いて、そして本人が帰ってみたら自分の愛する妻は弟の妻になっていた。そういう話が日本全国至る所にあります。
次の歌は、鹿児島県出身の代議士で防衛庁長官や総理府総務長官をなさった山中貞則さんという、農林畑のもみ上げのきつい、そして男らしい、そして頼りになる、中山先生もとっても頼りになりますが、同じような頼りになる代議士さんが末吉におられました。その人の歌われた歌です。「いささかの愛惜を断ち焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し」この人は顔に似合わず、顔は強持ての人だったですが、夜は万葉集をよく読んでおられた。山中先生は万葉代匠記という分厚い万葉集をいつも手許に置いておられた。しかし荷物になるとか、証拠が残るということで焼きなさいという上官の命令があって、自分は焼きたくないと思いながら愛惜を断ち、「焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し」。一体自分はいつ故郷に帰れるんだろうかという気持を山中先生は歌っておられます。次の歌は「何事も残すなの命令にたらちねの母の便りは拝みて焼きぬ」と。何も残してはいけないという命令がきたけど、お母さんの手紙は焼きたくない、どうかお母さん許してくださいと言って焼いた兵士の歌です。万葉集で、お母さんに関しては必ず「たらちね」という枕言葉が出てきます。次の歌は「妻の写真持ちて行かむをためらへり奉公袋ととのへし夜半」。妻の写真を持っていこうか持って行くまいかと、しかし持って行くと上官から叩かれたりするだろうと、どうしようどうしようとこの人は奉公袋に密かに奥さんの写真を入れている姿が分かります。まるで古代の万葉集の三番目の歌、「わが妻も絵に描きとらむ暇もが旅行く吾は見つつ偲ばむ」この歌と全く相共通する歌がこの昭和万葉集の中にもあります。
日本では戦争未亡人が16万8500人誕生しています。私の世代のお母さんがそうなんです。私は昭和20年7月8日生まれですが、私の同級生には両親が結婚して2ヶ月で、お母さんが身ごもって兵隊に行ったので父の顔を知らないとか、そういう友達がいくらでもおりました。最初の歌は「祭壇に届かぬ吾子の手を取りて戦死の夫に焼香をさす」。何が何やらわからない1歳か2歳の子供に、お父さんの仏壇に向かって焼香をさせているお母さんの姿が読み取れる訳です。次の歌は「遊びいる子を呼び寄せて手を握り静かに父の戦死をば知らせぬ」。4、5人の子供が庭で遊んでいると、役場から、あなたのご主人が亡くなったという知らせがきた。それを受けたお母さんはドキッとして泣きたいけれども気持を強くして子供達にお父さんの死を話しておられる姿が分かります。次の歌は、愛する夫が死んで三人ぐらいの子供たちをどう育てたらいいかわからない、「たはやすく死をねがふ心をいましめて子らの寝顔に口よせぬあはれ」。一家心中しようと、たやすく死を選ぼうと、そういう気持を戒めて自分で自分を叱って、子供達の顔に接吻をしている若いお母さんの姿が浮かびます。
次の歌は「復員の噂聞きたり真夜中の小さき音にも胸とどろかす」これは、夫が生きて帰る喜びを歌っているんでしょう。次の歌は「帰り来ぬ人と思へど復員の似たる姿に心ときめく」。もう自分の夫は戦死したが、駅などで他人の後姿を見ると私の夫ではないかと思って近づいていくという優しい妻の気持が歌われております。次の歌は「夫帰る友らをねたむにあらざれど独り寝る夜は胸痛きかも」。友達のところにどんどん夫が帰ってくる、しかしそれをねたむわけではないけど、夫を待っている私はとっても辛い。この人は夫が亡くなっているんですね、そういう気持が謳われています。
あの戦争で命を国に捧げた約7000人位の特攻隊員の英霊に対して、私はいつも深い尊敬の気持を持っています。最初の歌の永峰肇さんという人は、皆さん方も知っておられるかも知れませんが、住吉の出身で、弟の重信さんが兄さんの霊を守っておられます。この人は日本で初めての特攻隊員です。敷島隊といいまして、昭和19月の10月25日にマバラカットというフィリッピンのヒナツボ火山の側の基地から飛び立って、アメリカの空母セントローズを撃沈しています。だからその時に亡くなっていますが、その人が弟の重信さんに最後に出された手紙の中に「南海にたとへこの身は果つるともいくとせ後の春を想へば」。立派な辞世の歌だと思います。愛国心について教育基本法で、国を愛する心を涵養するというならそれなりの教科書が必要だと思います。特攻隊員の歌として「みんなの雲染むはてに散らんとも国の野花と我は咲きたし」(髙崎文雄さん)。この人は日向市出身でフィリッピンで亡くなっています。この歌の碑が日向市の馬が背公園にあります。
愛国心について教科書はどう扱っているのでしょうか。教科書選定は教育委員会が選定をしていくわけです。しかし、教育の世界はどうしても前例踏襲といいますか、昭和30年代の、日教組の強かった時に決まった東京書籍の教科書を前例踏襲ということでずっと使っている。それを読んだ子供たちはどうしても反日的な考えかたになっていくと思います。以前、未来塾で講演なさった先生がいましたが、南京事件とシベリア抑留の二つを例にとっても、南京事件についての記載を見ますと、東京書籍はこうです。「日本軍は同年末に首都南京を占領しました。その過程で女性や子供を含む中国人を大量に殺害しました。この事件は南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした」というのが東京書籍の教科書です。扶桑社は、「この時日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た。尚、この事件の犠牲者数などの実態については資料のうえで疑問点も出され、様々な見解があり今日でも論争が続いている」というような内容になっています。純真な、純白な子供達ですので、こうして読むと、私たちのおじいちゃん達はものすごく悪いことをしたんじゃないかという気持になると思うんですよ。扶桑社は私の見方に近くて、もっと調べてみないとわからない、今後検討が必要であるという記載になっております。
GHQの教育局と文部省と日教組と、私は三者に共通の責任があるんじゃないかと思います。それほど私たち日本人を、戦争をしたアメリカ人は逆に怖い。だから二度と戦争を起こさないように、戦争をしないように、日本と戦争をしたくないという気持が先走ったんだろうと思います。私たちの国文学の分野でいえば、たとえば曾我兄弟の仇討ち物とか赤穂浪士の仇討ち物というのは、昭和25年代まで全面上映禁止でした。大変なことです。アメリカ人の気持も分からんではないと思っています。それほど私たち日本人の文化をある面では勝った側が恐れたと。日本人の考え方はとても純粋ですから戦争をやる方は怖かったんだろうと思います。
それから、話は違いますが、シベリア抑留の記述についてはどうでしょうか。東京書籍はこのように書いています。「満州にいた日本軍約60万人がはシベリアで数年間強制労働させられ、6万人以上もの人たちが死亡した」と。扶桑社は、「ソ連は日ソ中立条約を破って満州に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返した。そして日本兵を含む約60万人の日本人をシベリアに連行し、過酷な労働に従事させ、およそ一割を死亡させた」と記載してあります。小さい時から、戦後は偏った歴史教育を受けて育ったわけです。
それからもうひとつ、皆さん方に話したいことは「冬の夜」という歌を知ってますか。私の好きな歌だったですね。「燈火近く衣縫う母は春の遊びの楽しさ語る」こういう日本の農村の暖かい冬の情景を歌った歌がありますよね。私が言いたいのは次の2番目の歌なんですよ。「囲炉裏の端で縄なう父は」いろりの側で縄をなう父は「過ぎし戦の手柄を語る」というのが原文なんですよ。どこで、中国の奥地でこんなことがあった、あんなことがあった、猛攻撃を受けて苦労したという話をお父さんが話すわけですね。「過ぎし戦の手柄を語る。居並ぶ子供はねむさを忘れて耳を傾けこぶしを握る」と。お父さんも頑張って戦ったんだねと子供たちはこぶしを握ると。「囲炉裏火はとろとろ外は吹雪」。お父さんの思い出話を子供たちにして、子供たちが興奮して握りこぶしを握ったという話なんです。その過ぎし戦がいけないということで、戦後の小学校ではこんなふうになっているんですよ。過ぎし戦を取り替えて、過ぎし昔の思い出語ると、そんなぼけた表現になっているんです。そしたら何で子供たちはこぶしを握らんといかんのかという矛盾が起こってくるわけです。皆さん、お孫さんの教科書を見て怒りを感じてくださいよ。これはね、やっぱりおかしいですよ。楽しい思い出だったら子供はこぶしを握らなくてもいいじゃないですか。
先ほど言いましたが、教科書の選定問題でも教育委員会が寝ぼけているもんですから、いつも前例踏襲で東京書籍の教科書を採用しています。橋本大阪市長は教育委員会をもう要らない、廃止しようということを言ってるじゃないですか。私もそう思います。教育長、宮崎市の教育長、私の故郷の新富町にも教育長がおりますが、こういう教科書問題を話しても分かってもらえない人たちが教育長になっている感じがするんですよね。ですから、教育現場にも新風といいますか、新しい教育感覚を入れないといけないのじゃないかと私は素直に思っておりますが皆さん方はどうでしょうか。
それから話を本題に戻しますが、この資料に登場してくる人物は私の好きな人ばかりです。江橋慎四郎という人は学徒動員の人、それから仲宗根政善先生というのはよくひめゆり部隊のテレビ映画に、優しい先生で出てきます。それからパール判事。この人は東京裁判に於いて、こういう裁判というのは勝者が敗者を裁く裁判で好ましくないと言っております。山中貞則という素晴らしい政治家が鹿児島県におられました。その人の歌は先程紹介しました。それから二階堂進さんは私の命の恩人といいますか、鹿屋体育大学を誘致した人で、鹿屋体育大学の後援会長をなさっておりました。それから上杉鷹山。ケネディーというアメリカの大統領が大統領になった時に、日本人記者が日本の政治家でどなたを尊敬されますかと質問したら、上杉鷹山とはっきり言ったそうです。なぜなら米沢藩の藩政を立て直した立派な人であると言っております。それから小沢治三郎という人は皆さんあまり知らないと思いますが、最後の連合艦隊司令長官です。山本五十六さんの次の次の人で高鍋出身なんです。この人の親戚が小沢さんという今の町長です。
それからルースベネディクト、この人はアメリカの社会学者で、日本とアメリカが戦争を始めた時に、アメリカ人は日本人の考え方がわからない。だから特攻作戦なんかもアメリカの予想しなかった戦争だった訳ですよね。自分の命を捨ててぶつかってくると。ですからケネディーはあの特攻隊の兵士たちをとても尊敬するというような意味のことを言っております。アメリカ人にはない考え方であるということをですね。
次の福沢諭吉という人は「学問のすすめ」という本の中で、とにかく学問をしなさい、自分に合った学問をしなさい、実学をしなさいと。そして人間は生きていかないといけないと言っております。映画「月光の夏」は、私はよく学生に見せていたんですが、二人の特攻隊員がピアノを弾いて出撃していくという話で、美しい映画だなと思います。本居宣長という人は万葉集の注釈を出した人ですが、日本人のハートを一体どういう風にして表したらいいかということで「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」。まさにいい言葉です。「敷島の」、これは枕詞です。さっきの「たらちねの母」のように、「敷島の」といえば必ず大和という言葉が続きます。「敷島の」、島を敷いたような日本、日本人の心というものを外国の人から聞かれたならば「朝日に匂う山桜花」。朝露を浴びてまさに今から咲こうとしている山桜花、これが日本人の心ですと。さらっと、そして美しくてパーッと散っていく、これが日本人のハートであると言っています。契沖という人は万葉集の注釈をやった人です。
そろそろ結論の話になりますが、私たちの世代まではとっても美しい日本人の心がずっと生きていたんじゃないかと思うんですよね。それぞれの家では、おじいさんやおばあさんがおって、人に悪いことをしてはいけないよとか、お前達はそんなことをしたら死んだ後地獄に落ちるんだぞとか、人に迷惑を掛けないようにとか、そういうことをいつも気にして生きてきました。しかし今の日本の社会を見ますと、額に汗をして働くということを日本人は美徳としなくなったんじゃないかと。あのホリエモンが登場した頃から日本はおかしくなったのではないかなといつも思うんです。とにかくお金持ちが一番最高であるというような考え方、拝金主義と言いますか、そういう考え方が日本人を駄目にしたのかも知れません。
それから、私は中学時代だったと思いますが、これはTBSで放送され、映画にもなったんですが、「私は貝になりたい」という、フランキー堺さんが主役で新珠美千代さんが奥さん役で出てきておりました。南国土佐を舞台にして、名もない散髪屋さんが主人公で、そして戦争に引っ張られて、弾が当たって落ちてきたアメリカ兵を刺せという上官の命令を素直に受けて、それをやったお蔭で巣鴨にBC級戦犯として収容されて、そして処刑される。処刑される時に「私は貝になりたい」と。もう海の底に沈んでる貝になれば戦争なんか巡りあわなくてもいいんだと、平和に暮せるんだということを言って死んでいく場面がとっても印象に残っています。
こういう日本人の生き方ですね、皆さん方は、A級戦犯だけを頭の中に描いておられるでしょうが、たった7人の処刑ではなくて988名のBC級戦犯も巣鴨で処刑されております。その中には私の遠縁に当たるものも入っております。プリンスホテルの場所が巣鴨の刑務所の跡なんですね。だから私は東京に出張の時に、あそこにだけは、いくら部屋が無くても泊まらない。私たちの同胞が処刑されたんだと思うと泊まりたくない。そういうことで日本人というのは本当にお人好しといいますか、純粋といいますか、ある面では国際感覚が無い、今の教育の間違った点を何ら気付こうともしない、これは大変な私は間違いであると思う。そうかといって、我々一大学教授が立ち上がって、民間教育臨調なんかに入っても、教育基本法の一部は突き上げて国会で通りましたけど、なかなか国全体を動かす力にはなれません。だけど私達はあの時代を生きて、いかに戦争で亡くなった人たちが純粋な気持で亡くなられたのか。英霊に対する尊敬の気持を死ぬまで私は持ち続けて生きていきます。私はどんなに忙しくても8月15日には必ず宮崎の護国神社に参っています。東京出張の時は靖国神社に必ず参っています。そういう気持をみんなで持ち続けて、もう一度日本を立派な国に発展させて、次の世代にバトンタッチしていくささやかな原動力になればいい、捨石になってもいいと思っております。
今はやりのジェンダーフリー、そういう言葉は私達の時代にはなかったんですが、ジェンダーフリーというのは、男女平等、男と女の垣根は全部取り払って平等じゃないといけないという考え方です。ですからこういう考えの人達は、昔話があるでしょう。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に・・・こういうのも否定するわけです。なんで女の人が川に洗濯に、男が山に芝刈りに行くのか。しかし、日本の社会はそれで平和にずっとやってきたわけでしょう。そういう日本にはよき家庭の習慣があるんですが、あたかもジェンダーフリーとか、グローバリゼーションとか、いろんな流行の言葉がありますが、私はそういう考えはどうも好きになれません。私などはそういう人間として一生を終わっていくんですが、それでいいと思っています。ささやかに日本の改革を願っておりますし、子供たちがもっと明るく楽しく育ってもらいたい。ベトナムの影像など見ていると、決して日本ほど豊じゃないけど子供たちの目がきらきらきらきら光っていますよね。かつての私達の少年時代のあの目つきと一緒ですよ。私たちの少年時代は貧しかったけど明るい顔をしておりました。今はとっても暗い日本になりつつあるなと心配しております。社会の構成員の一人として今後も頑張りたいと思います。今晩はほんとにご静聴有難うございました。