石原慎太郎 氏は父性を感じさせる人だ。圧倒的に強くたくましく、頼りがいがある。知性豊かで、ひと言、ひと言に権威と風格と重みがある。頑固一徹で曲がったことは許さない。祖国や家族への愛情が深く、人情家で案外涙もろい。現代風の友達みたいな話し易いパパではないけれど、伝統的な「理想の父親像」だ。
こうした立派な父親を前にすると、成長期の男の子達は複雑な悩みを抱える。愛情や尊敬を感じながらも、一方で、乗り越えられぬ父親の存在に圧迫感を覚える。父親と一緒にいれば嬉しいのに、幼児みたいに無邪気に甘えることが出来ない。素直に教えを請う気持ちにもなれない。
唐突だが、維新の橋下氏はちょうどこんな感情を石原氏に対して抱いているのではないかと思う。石原氏が提唱する第三極連合の大同団結案に対し、橋下氏がたちあがれ日本との考え方の差異をことさら主張するのも、若者の反抗期みたいに見えなくもない。背伸びして精一杯大人に見せたい虚栄心かも知れない。
思うに、橋下氏には思想も理論も哲学も何もない。モノの弾みで政界に飛びこんだTVタレントだ。しかし何故か、旧来の政治制度をぶち壊したいと云う、凄まじい闘争心とタフさを持っている。若年寄みたいな聞き分けのいいお役人タイプが多い日本社会だけに、随分目立つ個性だ。年長の石原氏から見れば、元気でやんちゃなカワイイ 息子みたいな存在か。
最近の橋下氏にはおかしな反日発言が多いが、石原氏の目には、若者が聞きかじりでサヨク思想を語るような未熟さと映って、ますますカワイクなっているのではないか。間違っているからこそ教育のし甲斐がある。橋下氏に一緒にやろうと声をかける裏には、こいつは育てれば伸びるぞと云う期待と、自らの政治理念を教えてやりたい気持ちがあるのだろう。しっかり、まっすぐ大きくなれよ、と云う石原氏の声が聞こえてきそうだ。
もっとも世間では父親の期待は往々にして裏切られる。石原新党が大同団結すべき相手は維新ではないような気がする。