【再び、拉致を追う】(3)
拉致被害者、横田めぐみさん=拉致当時(13)=の「遺骨」が、北朝鮮から届いたのは平成16年11月15日だった。金正日総書記が拉致を認め、めぐみさんは「死亡」とされた日朝首脳会談から約2年が経過していた。くしくも、めぐみさんが新潟市の海岸から北朝鮮工作員に拉致された日と同じだった。
「政府から話を聞く前、『横田めぐみを死んだことにしたい連中があらゆる口実を作って、だましにかかることを忘れてはならない』と家族で確認し合いました」とめぐみさんの弟、拓也さん(44)は振り返る。母、早紀江さん(76)も「小さな箱を外務省高官から手渡されました。いったん手にしましたが、すぐに返しました。外務省の方が『鑑定してもよろしいんですか』と聞いてきたので、『当たり前じゃないですか』って即座に答えました」。
鑑定の結果、めぐみさんの骨ということになればもちろんだが、「分からなかった」といった結果でも、めぐみさんの「死亡」を強く印象づけるおそれがあった。その意味では「9・17」以降、最大の山場を迎えていた。早紀江さんらは、自宅に大切に保管してあった桐の小箱に入っためぐみさんのへその緒を鑑定の試料として提出した。
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北朝鮮側が「死亡」とした被害者の「遺骨」を提示してきたのは、実は2回目だった。日朝首脳会談直後の14年10月、松木薫さん=同(26)=の遺骨とされた骨を日本政府調査団が持ち帰った。
その骨は2度にわたって焼かれた後、ハンマーのようなもので粉々に割られていた。「DNA型鑑定は困難」とされたが、あごの骨の一部が残っており、骨格鑑定で「60代の女性のもの」と結論づけた。
沈黙を続けた北朝鮮側は2年後に最大の謀略を仕掛けた。めぐみさんの「遺骨」もDNA型鑑定を難しくさせるためか、通常の火葬時よりかなり高温の1200度で焼かれていた。今度は骨の部位もわからないくらい粉々だった。日本側が「鑑定は不可能」という結論を出すのを期待していたとみられる。
だが、日本の捜査当局などが実施したDNA型鑑定はあっさり「めぐみさんとは別人2人の骨を混ぜたもの」との結論を導きだした。めぐみさんの「死亡」を裏付けるあらゆる証拠が完全に崩壊した瞬間だった。早紀江さんは「こんな国におどらされていいのかと思いました」と回想している。
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北朝鮮側は、松木さんの「骨」のときに、日本側はDNA型鑑定ができずに、骨格鑑定で「別人のもの」という結論を導いたと思い込んだ。「めぐみの『骨』もDNA型鑑定はできない」と。ところが、あえて公表を控えていたが、松木さんの「骨」は実際は、DNA型鑑定も実施され、そちらでも「別人」と確認していたのだ。手の内を見せなかったことが、北朝鮮側の謀略を暴いた。
公安関係者は言う。「日朝首脳会談から時間が経過し、政府内の一部には北朝鮮に融和的なムードがあった。だが、めぐみさんの遺骨が偽物と分かった結果、日本側が北朝鮮の欺(ぎ)瞞(まん)性を確信し、そうしたムードは完全に消えていった」
偽物の遺骨を提供したことが白日の下にさらされた北朝鮮側は、それ以降数回、日朝協議に応じたが、「拉致問題は解決済み」という姿勢に再び転じた。この対応は、めぐみさん「死亡」の根拠を失った北朝鮮側に説明できるものがなくなったことを示している。北朝鮮はその後、8月下旬の日朝協議まで4年間も公式の接触を避けた。