【40×40】笹幸恵
尖閣諸島の“問題”がにわかに注目されている。しかし日本には、戦争に負けた直後から、北方領土問題が存在することを忘れてはいないだろうか。
私の友人は、保守派と呼ばれる人に会うたびに北方四島の名前を漢字で書いてもらうアンケートを実施しているが、ほとんどの人は漢字で書けない。それどころか、島の名前を挙げられない人も少なくないという。
昭和20年8月9日以降、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、満州(現・中国東北部)に、樺太(現・ロシアサハリン)に、攻め込んできたことを知る人は多いだろう。しかしカムチャツカ半島の目と鼻の先、千島列島の占守島で戦闘があったことを、どれほどの人が知っているだろうか。それも日本がポツダム宣言を受諾した後の話である。
日本人のほとんどが負けるなどと想像すらしていなかった18年11月、米英ソのテヘラン会談で、ソ連はすでにドイツ降伏後の対日戦参加を明言していた。そして「ヤルタ協定」成立後、対日戦略基本構想を決定し、日本の敗戦後も、千島列島全部と北海道北半(釧路市と留萌市を結ぶ線以北)をソ連の担当地域だとして攻撃続行を宣言したのである。
占守島での、ソ連軍の突然の強襲上陸。内地帰還の準備を始めていた守備隊の将兵たちは必死に抵抗した。しかし国家はすでに負けている。停戦交渉を申し入れ、占守島の将兵たちは極寒の地で抑留生活を送らなければならなかった。
一方のソ連側は、降伏文書が調印される9月2日より前に、北海道北半までを武力占領することをもくろんでいたが、それはかなわなかった。
表向きは米国の反対であったが、占守島で予想外に手間取ってしまったことも大きな要因だったといわれている。占守島での戦闘がなければ、北海道は赤化されていたかもしれないのだ。その歴史は、しかし戦後六十余年もの間、顧みられることはなかった。
尖閣諸島に限らず、領土問題における政府の弱腰ぶりは、戦後日本人の安全保障と戦史への無知無関心をそのまま象徴している気がしてならない。
(ジャーナリスト)