【消えた偉人・物語】松平定信
松平定信(1758~1829)は30歳という若さで主席老中になり、幕政を再建した“賢相”である。江戸時代全期間の老中就任時の平均年齢は45歳であるから、まさに異例の大抜擢(ばってき)であった。老中就任に際し定信は「人々解体仕り候義に御座候はば、只今の内に私死去仕り候様に願ひ奉り候」と江戸本所吉祥院にひそかに願文(定信死後9年を隔てた天保9年に発見)を納めた。難局を前に彼が身命を懸け並ならぬ決意を抱いて立ち向かおうとしていたことが、これによってうかがうことができる。
老中就任の矢先、京都の大火で皇居が炎上するということがあった。定信はその検分のために上京した。焼け跡で家来の者から床几(しょうぎ)(椅子)にかけるよう勧められたとき、「ここを何と心得るか。賢くもここは陛下の御座所(ござしょ)であるぞ」と一喝したという。その後皇居は往古の正しい姿に戻さねばならぬとして、詳しく調査し古制にのっとり立派に造営されたのであった。定信のこの見識と尊王心は、父・田安宗武(たやすむねたけ)の影響が考えられる。宗武は賀茂真淵(かものまぶち)や荷田春満(かだのあずままろ)といった国学者から古学を熱心に学び研究した人であった。
この定信のことが国定修身教科書(第4期)の中で、「きそくをまもれ」と題して次のように伝えられている。
定信があるとき地方に見まわりに出かけたとき、関所を通り抜けようとした。そのとき関所の役人は「規則ですから笠をおとりください」と言う。定信は「なるほど、そうだった」と、かぶっていた笠をすぐにとって通った。それから宿に着いた定信はその土地の上役の者に、関所での不心得を述べ、注意してくれた役人に厚く礼を伝えてもらいたいと丁寧に挨拶したという話である。
このように定信は規則に対して厳格であるとともに、好んで直言を受け、下言を容(い)れることに努めた。実際、中井竹山(大阪の儒者)の『草茅危言(そうぼうきげん)』など彼に出された上書や建白書は多数にのぼり、採るべき政策は採用され実施されていったのである。(皇學館大学准教授 渡邊毅)
松平定信の願文草案=「人物探訪」 (暁教育図書)