【日本人の源流 神話を訪ねて】
松江市のJR揖屋(いや)駅から約40分。里山の風景を眺めながら農道を上ると、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」がある。イザナキノミコトが亡くなった妻、イザナミノミコトを追って現世から黄泉(よみ)の国に向かう際、通ったとされる生と死をつなぐ境目だ。古事記では「今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂(い)ふ」と記されている。
不実のふるまいに怒ったイザナミの追っ手から逃れるため、イザナキは山ブドウの実やタケノコなどを投げ、剣で払って、この坂に戻り着く。そして、追いついたイザナミを封じ込めるため、千引(ちびき)の岩を据えたという。
この神話は、横穴式石室を持つ古墳での葬送儀礼を連想させる。古事記編纂(へんさん)に先立つ古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の古墳では、遺体を埋葬する横穴式石室から食器とみられる土器が出土し、かまどが作られているものも見つかっている。
「これらは黄泉の国での食事(黄泉戸喫(よもつへぐひ))を想起させる」と出雲弥生の森博物館(島根県出雲市)の高橋周・学芸員(36)は言う。「同じ石室に違う人を葬る追葬の際には以前葬った死体を目撃する可能性があり、ウジがたかるイザナミのイメージにつながったとの見方もある」
イザナキの逃亡劇を連想させる発掘もある。約10年前、未盗掘の状態で発見された国富(くにどみ)中村古墳(同)だ。石室内の石棺や副葬品の馬具などが破壊されていたが、死者がよみがえったり、たたりを起こさぬよう行われた儀式だと確認された。
壊れた副葬品には投げ割った形跡があった。イザナキの行為と重なる史料と言える。現世に戻った際、イザナキが禊(みそぎ)を行う記述は、古事記編纂期にはすでに、死を不浄のものとして切り離す考えが意識されていたことをうかがわせる。
「古代の人々の生と死を分かつ儀式が、神話の中には刻み込まれている」と高橋氏は言う。黄泉比良坂の近くにはイザナミを祭った古社、揖夜(いや)神社があり、黄泉の国と縁が深い神社として長く、朝廷からの崇敬もあつかったという。死や血を忌み嫌い、死者の怨念を恐れたのは、朝廷の際立った特徴だ。その死生観の原型が、古事記編纂の時代にはすでにできていた。
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黄泉の国を海のかなたと考える説もある。荒神谷博物館(同)の錦田充子・学芸員(42)は「海岸線などにつくられた洞窟遺跡が黄泉の国と、この世を結ぶ境とも解釈できる」と話す。
候補地の一つが島根半島西部の日本海に面した小さな入り江に近い猪目(いのめ)洞窟遺跡。『出雲国風土記』の中に「黄泉の坂、黄泉の穴となづくるなり」として登場する場所と考えられる遺跡だ。船材を用いた木棺による埋葬跡も見つかった。
千葉県館山市にある大寺山(おおてらやま)洞窟遺跡(5世紀~7世紀後半)では、舟形の棺のへさきがすべて、洞窟の入り口の先に広がる海に向かう形で見つかった。死者が海の向こうへ旅立つ古代人の思想が読み取れる。
「古事記にはイザナミが戻る館の中が暗いとは書かれていますが、黄泉の国が暗いとは書かれていない。黄泉の国が地下の世界とも書かれていません。黄泉の国が洞窟を通過点として、船で向かうはるかかなたと推測することもできる」
この説では黄泉の国にも光明が灯(とも)る。極楽浄土を説く仏教を受け入れる素地が古代人にあったことを示していて、これも興味深い。
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≪黄泉の国≫
大八島(日本)や神々を生んだ夫婦神のイザナキノミコトとイザナミノミコト。イザナミが火の神を生んだ際の大やけどがもとで死ぬ。嘆き悲しんだイザナキは、イザナミを追って黄泉の国を訪れる。
ともに帰ろうと言うイザナキに、イザナミは「黄泉の国の物を食べたので戻れないが、黄泉の国の神様に頼んでみる。その間、決して自分の姿は見ないでほしい」と告げ、館に入った。イザナキは待ちきれず、館をのぞく。そこにはウジにたかられ、雷神に憑(つ)かれた恐ろしいイザナミの姿があった。
イザナキは逃げ、恥をかかせたと怒ったイザナミは、醜女(しこめ)らに追わせた。ほうほうの体で戻ったイザナキが体についた穢(けが)れを洗い流すと、3人の神が生まれた。後の物語を紡ぐアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトだ。