古代史に刻まれた外交の神髄。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






【消えた偉人・物語】独立国家の気概

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120630/art12063007580004-n1.htm





わが国が中国の冊封体制から自立するのは、聖徳太子が小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣(607年)し、先方の煬帝(ようだい)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」との挨拶(あいさつ)で始まる国書を届けたことによる。

 この時、煬帝は憤怒の色を見せるも、結局は妹子の帰国に際し、答礼としての隋使を訪日させる。煬帝は不承不承ながら対等関係を承認したとみてよい。この卓越した太子外交は、のちのわが国の遣唐使一行にとってよりどころとなった。その証左を『続日本紀』にうかがうことができる。

 例えば702年、粟田真人(あわたのまひと)が遣唐使の長官として渡唐したとき、どこの国の使者かと問われた真人は、かつて中国から倭国と呼ばれた国名を用いず、「日本国の使なり」と応じたというから、太子以来の気概のほどが偲(しの)ばれる。

 ちなみに、この時の応答が、外交史の上で日本人みずから「日本」国号を用いた嚆矢(こうし)といわれている。

 さらに『続日本紀』には、遣唐副使を務めた大伴古麻呂(おおとものこまろ)の帰朝報告が収録されているが、この内容がまことに興味深い。

753年正月のこと、玄宗皇帝への朝賀の儀に臨んだ古麻呂の席は西側に置かれ、その席順は吐蕃(とばん)(チベット)に次いで2番目。一方東側に並んだ新羅の使者は第一席に置かれていたという。要するに、独立国家たるわが国を低く扱っていたのである。

 そこで古麻呂は憤然として主張する。いわく、「古より今に至るまで新羅の日本国に朝貢すること久し。而るに今、東畔の上に列し、我反りてその下に在り。義、得べからず」

 昔から新羅はわが日本に朝貢してきた国である。ところが今、その新羅が上席をあてがわれ、わが国の席は下座に置かれている。これでは道理にかなわないではないか、と。

 この正論を聞くや、恐懼(きょうく)した唐の役人はただちに席順を改め、古麻呂の席を筆頭に置いたという。

 わが国は、聖徳太子による対等外交以来、これだけの誇りと対中外交に当たっての交渉力を身につけていたのである。

                       (中村学園大学教授・占部賢志) 






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             「聖徳太子絵伝」に描かれている新羅討伐の図=「日本の歴史」(暁教育図書)