【東京特派員】湯浅博
横浜・野島公園の松林を抜けると、田舎家のような5棟のかやぶき屋根が見えた。明治の元勲の別邸にしては、随分と質素なものである。ここは初代首相、伊藤博文公の旧金沢別邸だ。横浜市が「開港150年」「伊藤公没後100年」にあたる平成21年秋、創建時のままの姿に復元した。
「こちらにお茶を置きます」
声に誘われて奥に進む。客間に入ると目の前に東京湾が広がり、海風が潮の香りを運んできた。陽光に輝く海を見ながら、お願いした抹茶を一服いただく。この日はほかに入館者がなく、伊藤の別邸を独り占めとは贅沢(ぜいたく)な気分だ。聞けば伊藤は明治31年にこの地が気に入って別邸を建てた。その後は一時、日産グループに売却され、やがて市に譲渡された。しかし、老朽化が進んで荒れ果て、ようやく3年前に復元された。
客間からは右方向に海を隔てて夏島が見える。いまは日産自動車や住友重機の工場になっているが、あちらにも伊藤ゆかりの夏島別荘があった。別荘跡地には、「明治憲法起草地」の石碑だけで昔日の面影はない。
金沢地区には、伊藤が好んだ夏島の「夏島別荘」と野島の「金沢別邸」の2つが存在したことになる。風光明媚(めいび)の地といえども、東京から遠い無人島に、伊藤はなぜ別荘と別邸を建てたのだろう。
それは明治22年2月11日に発布された大日本帝国憲法の草案づくりと深い関係があった。伊藤らは民権派の妨害と暗殺者の目を逃れ、極秘に憲法草案を起草する必要があった。この明治憲法が、起草地の名前から「夏島憲法」と呼ばれるゆえんである。
伊藤は明治15年、憲法調査のために伊藤巳代治、西園寺公望らを伴って渡欧した。ベルリン大学やウィーン大学のドイツ系学者から多くの教示を受けた。
これに対して板垣退助ら民権派は、憲法が国家権力の強いドイツ型になると警戒し、憲法案文を事前に封じようと躍起になった。伊藤らは機密を保持するために、東京から汽車と小型蒸気船を乗り継がねばならない金沢地区の無人島、夏島を選んだ。
伊藤は嘉永年間、ペリーの黒船が浦賀沖に来航したさい、最年少の長州藩士として三浦半島の警護にあたったことがある。このとき伊藤の目に焼き付いたのが、故郷の萩に似た金沢の風景だった。
こうして伊藤は、憲法起草のための隠れ家として夏島に別荘をつくり、金沢・瀬戸橋の料亭「東屋」を事務所に使った。ところが伊藤巳代治の東屋の部屋から機密書類が盗まれるという事件が起きた。民権派の仕業かと思われたが、現金だけが抜き取られて機密書類はすぐに見つかった。
彼らは狭い夏島別荘で討議を繰り返し、3カ月のうちに草案を脱稿した。この間にも、遊び好きな伊藤は、夏島に芸者をよんで遊ぶことだけは怠らなかったというから剛毅だ。
この夏島案は、審議のために設置された枢密院にかけられた。初代枢密院議長は当の伊藤博文で、起草に参画した法制局長官の井上毅が枢密院書記官長に、伊藤巳代治と金子堅太郎は書記官になった。いわばお手盛りである。夏島別荘はその後、移築後に関東大震災で焼失した。伊藤はこれとは別に、明治憲法が発布されてから8年後、近くの野島にこの金沢別邸を建てたのだ。東京・高輪の本宅は売り払って明治23年に神奈川県小田原市御幸浜の滄浪閣に移っていた。伊藤はやがて韓国統監に就任し、ハルビン駅頭で朝鮮の独立運動家に暗殺されて生涯を閉じる。
金沢別邸の一番奥まった8畳の部屋を「夕照の間」という。金沢八景の一つ「野島の夕照」を指す。この日も迫り来る夕暮れの風景の中で、一日が静かに暮れていった。
(ゆあさ ひろし)