藤原定家の末裔の「戦死」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】1578年4月1日






信長と毛利の間に立って


 公家にとって、戦国時代は「受難の時代」であった。各地にある所領の多くが武士に横取りされたからである。朝廷に依頼しても、室町幕府に頼んでも守られる望みは薄かった。

 そんな事態を放置できないと自ら領地に下り、管理に乗り出した公家も少なくない。鎌倉時代の歌人、藤原定家の9代の孫、冷泉為純(れいぜい・ためずみ)(1530~78年)もそんな一人であった。

 所領は播磨国細川荘(兵庫県三木市)で、ここに居館を設けた。一帯を支配していたのは三木城主、別所長治。為純の母は長治の一族で、2人の関係は悪くなかったようである。

 危機は永禄11(1568)年、織田信長の入京とともに訪れた。信長は近畿周辺の武将に服従を求めた。長治はひとまず傘下に入り、中国地方の太守・毛利氏と対決する道を選んだ。

 しかし、信長には敵も多かった。甲斐武田氏や越前朝倉氏、本願寺などである。天正6(1578)年2月下旬、これら「信長包囲網」が完成すると、長治も信長に反旗を翻した。

弱小領主である為純も重い決断を迫られた。彼がどう悩んだかを記す史料は残っていない。しかし約1カ月後の4月1日、館は長治勢に攻められ、為純は息子とともに討たれた。定家以来の蔵書も灰燼(かいじん)に帰した。

 「為純がなぜ、長治と手切れしたか。信長が朝廷を守護する姿勢を示していたことを知って、公家である自分の領地も安堵(あんど)してくれると考えたのではないでしょうか」

 近著『逃げる公家、媚(こ)びる公家』(柏書房)で為純の生き方をたどった中世史家、渡邊大門(わたなべ・だいもん)さんは言う。

 このとき生き残った為純の息子が、儒学者の藤原惺窩(せいか)(1561~1619年)である。いま細川荘跡には惺窩の像が立ち、一族の数奇な運命を静かに語りかけている。


                                  (渡部裕明)