武人・西行の出家。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】1140年10月15日





豊かな資産で「数寄」を生きる


 爛漫(らんまん)の桜に見とれて、西行(1118~90年)について書きたくなった。彼はよほど桜が好きだったらしく、生涯残した2千を超える和歌のうち、1割以上が桜を詠んでいる。

 根っからの歌人のように思われているが、彼の出自は「武家の名門」である。平将門を討った藤原秀郷(ひでさと)(俵藤太(たわらのとうた))の末裔(まつえい)で俗名は佐藤義清(のりきよ)。あの源頼朝が「弓馬(きゅうば)の事」について教えを請い、西行もそれに答えている。

 保延(ほうえん)元(1135)年、義清は18歳で兵衛尉(ひょうえのじょう)という官職に就いた。そして、鳥羽法皇によって「北面の武士」に取り立てられる。警護役としての武術はもちろん、和歌や蹴鞠(けまり)など多彩な才能を認められたのだった。

 ところが5年後の保延6年10月15日、義清は突然、出家する。13世紀に成立した『西行物語』には、帰宅を喜んで抱きつく4歳の娘を縁側から蹴落とし、俗世の関係を絶ったとある。この有名なシーンは先日、NHK大河ドラマ「平清盛」でも放送された。
西行が出家遁世(とんせい)した理由は何だったのだろう。大河は「鳥羽妃・待賢門院(たいけんもんいん)との恋愛説」を採用していたが、身分社会ではありえないことである。

 歴史家の目崎徳衛・聖心女子大学教授(故人)は「数寄(すき)の遁世」という見方を提示した。身分や家柄で硬直化した貴族社会をあえて捨て、各地を旅しながら和歌の世界を究めるためだったというのである。

 出家後は平泉や鎌倉、吉野、高野山など歴史の舞台を訪ね歩いた。気に入ると庵を結び、家族やゆかりの人との交遊も楽しみ73歳まで生きた。

 彼の出家がいまもって嘆美される理由の一つは、何物にも束縛されない自由な生き方があるからではないか。それを支えたのが、父から受け継いだ田仲荘(たなかのしょう)(和歌山県紀の川市)など豊かな資産ではあったのだが。

(渡部裕明)