【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久
◆命がけの自民党結成
野田佳彦首相が消費税増税について「政治生命をかけて、命をかけて頑張る」と語ったことに賛否両論がある。「不退転の決意が伝わる」と理解する声と「首相として軽々に過ぎる」という批判だ。
しかし昭和30年代初頭、文字通り自らの政治課題に命をかけた政治家が2人いた。自由民主党の結成、いわゆる「保守合同」の中心的役割を担った自由党総裁の緒方竹虎と日本民主党総務会長、三木武吉である。
民主、自由両党が合併して自民党が結成されたのは昭和30年11月15日のことである。だがそのわずか2カ月後の31年1月、緒方が67歳で急死、三木も同年7月、71歳で世を去った。ともに保守合同という難業を仕上げた無理がたたったとも言われた。
特に三木の場合、病魔にむしばまれ、ガリガリにやせた体でかつての政敵の自由党総務会長、大野伴睦と接触するなどし、半年で立党にこぎつけた。
一体何のために命をかけたのだろう。何年か前「戦後史開封」の取材で、この疑問を元毎日新聞記者の西山柳造さんにぶつけたことがある。三木の信頼が厚く、大野との密談をセットした保守合同の陰の立役者だった。西山さんの答えはシンプルなものだった。
「戦後の占領政策を改革し、憲法を改正するには保守が一本になるしかないと考えたからです」
◆吉田政治からの脱却
「保守合同」には参加した政治家のそれぞれの思惑があった。左右の2党に分かれていた社会党に統一の機運が強まり、保守が分裂していては、左派政権が生まれるという危機感も強かった。
だが三木や、三木がかつぐ民主党の鳩山一郎(合同当時首相)らの目的は明確に憲法改正であり、発議に必要な衆参3分の2以上の勢力を得ることだった。それはまた、昭和20年代の政界に君臨してきた吉田茂の政治からの脱却を意味していた。
昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、米国は手のひらを返したように日本に再軍備を求めてきた。在日米軍を朝鮮半島に回すため、日本の安全はある程度、日本に任せようとしたのだ。
憲法9条を改正する絶好のチャンスだった。だがワンマン宰相といわれた吉田は、政令により警察予備隊(後の自衛隊)を発足させたものの、改憲には応じない。
護憲論者ではなかったが、経済の復興を最優先させるため、「武力」は最小限にとどめ、独立回復後は、日米同盟に国の安全保障をゆだねる方針をとったのだ。
鳩山や三木の目には「逃げ」としか映らなかった。事実ここで憲法改正をパスしたことは、自衛隊という何とも中途半端な「軍」と「合憲か違憲か」という不毛な議論を後世に残してしまった。
◆真剣だった初期の政権
立党時の宣言や綱領に「憲法改正」をハッキリうたっているわけではない。しかし保守合同を受け、6日後に第3次鳩山内閣が発足するさい、鳩山は談話で、行政改革や税制改革とともに「憲法改正」を「公約」している。
発足4カ月後には早くも国会に小選挙区制法案を提出する。新生自民党は衆院で300議席にふくれあがっていたが、憲法改正には足りない。そこで多数派に有利な小選挙区制を導入、一気に改憲を目指したのだ。
だがこの政治手法はあまりに強引で露骨に見えた。野党や世論のバッシングを受け、衆院では可決されたものの、参院で廃案となってしまう。改憲派には痛恨の失敗だったが、初期の自民党がいかに真剣だったかを示している。
その後、やはり改憲に意欲的だった岸信介は日米安保改定に精力を使い果たし、そこまでは手が回らなかった。吉田の「弟子」にあたる池田勇人、佐藤栄作らの時代になると、経済優先が鮮明になり「憲法」はほとんど議論もされなくなる。結党時の「党是」ともいえる憲法改正を「緊急性はない」と先送りし続けてきた。
しかし今、中国や北朝鮮の軍事的威嚇にまったく対処できず、大震災など非常事態を想定していないなど、憲法の欠陥が改めて浮き彫りにされている。
これを受けて自民党はようやく「憲法改正原案」をまとめた。産経新聞も「国民の憲法」起草委員会を発足させた。改憲に向けての機運も少しは盛り上がってきた。だが今や自民党は少数勢力であり各党の改憲勢力が結集しなければ「悲願」は達成されない。
政界には今、民主党政権の行き詰まりから、自民党との大連立や政界再編を目指す動きもあるという。それなら、あの「保守合同」のように国家のありように関わる憲法を軸にした再編であってほしい。それも命がけで取り組まねばならない。
(さらき よしひさ)