【決断の日本史】 661年3月
老女帝・斉明天皇の執念
《熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな》
愛媛県の生まれで、松山で暮らしたこともあるから、『万葉集』巻1に収められたこの歌が好きである。
作者の額田王(ぬかたのおおきみ)は大海人皇子の妃とされる歌人で、この歌も月明かりの中、船団が船出してゆく様子が目に浮かぶ秀作だ。しかし、歌の歴史的背景となると極めて深刻なものだった。
斉明(さいめい)天皇の7(661)年、朝廷は新羅に攻められて滅亡した百済を復興しようと、2万7千の兵を朝鮮半島に送ることとなった。天皇は1月6日、68歳の高齢をおして九州を目指し、難波津(なにわつ)を出航した。天皇自らの西征(せいせい)など、空前絶後のことであった。
船団は瀬戸内海を進んで14日、熟田津(松山市)に停泊し、天皇は道後温泉に近い石湯行宮(いわゆのかりみや)に入った。その後、一行がいつ出発したかはわからない。2カ月後の3月25日、娜大津(なのおおつ)(博多)に着いたことがはっきりしている。
長逗留(とうりゅう)の理由は何だろう。万葉集の研究者、山内英正・甲陽学院高校教諭は「天皇の体調がすぐれず、温泉で療養した可能性が大きい」と話す。それだけでなく、一行は徴兵や軍船の調達にも苦労していた。瀬戸内沿岸の豪族を叱咤(しった)したが、海を渡っての戦いとあって手間取ったに違いない。
苦労して九州にたどり着いた斉明天皇だったが4カ月後の7月24日、朝倉橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)(福岡県朝倉市)で崩御してしまう。遺骸は飛鳥に送られ、長男の中大兄皇子(天智天皇)が即位式を挙げないまま政務を執った。
2年後の663年8月、倭国軍は朝鮮南西部の白村江で新羅・唐連合軍と戦い、壊滅的敗北を喫する。寄せ集めの軍隊で、指揮系統も統一されていなかったための悲劇であった。熟田津の絶唱に託した老女帝の執念も、ついに実らなかったのである。
(渡部裕明)