【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明
先の週末、京都を歩いた。御所から鴨川にかかる葵(あおい)橋を渡って「糺(ただす)の森」へ。柔らかな光が春の訪れを告げていた。
世界遺産にも登録された下鴨神社境内。糺の森の南口に摂社の河合神社がある。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と始まる『方丈記』の作者、鴨長明(1155~1216年)ゆかりの社である。
◆身分社会に立ち向かう
長明は下鴨神社の惣官(そうかん)(宮司)、長継(ながつぐ)の次男として生まれた。聡明(そうめい)で学芸に秀でていた。7歳で従五位下(じゅごいのげ)に叙せられているから、貴族の階段を順調に駆け上がるはずだった。
ところが20歳になる前、父親が亡くなった。ほどなく母が仕えていた二条天皇の中宮(高松女院)も没した。身分社会において、庇護(ひご)者を失うほど惨めなものはない。昇進のあてがなくなってしまったのである。
長明は自らの才能でのしあがろうとした。和歌を学び、勅撰集『千載(せんざい)和歌集』に1首が入選した。後鳥羽上皇に認められ、和歌所寄人(わかどころよりうど)にも選ばれた。
にもかかわらず、長明は3年後に和歌所を辞し出家してしまう。父もつとめた河合神社の宮司職を一族の有力者に奪われたことに絶望したとされている。
その不遇こそが、長明に不朽の名を与えることとなった。建暦(けんりゃく)2(1212)年3月に完成した『方丈記』一編である。だから、今月は『方丈記』が書かれて、ちょうど800年にあたる。下鴨神社のあちこちには、「方丈記完成800年を記念して短歌やエッセー、写真を募集します」という案内が置かれていた。
◆目を見張る災害の記述
学生のころから、『方丈記』が好きだった。京都で勤務したときは、長明が方丈(約3メートル四方のプレハブ住居)を建てたとされる日野(伏見区)山中にある方丈石を訪ねたこともある。
しかし今回、読み直してみて、過酷な災害の叙述に改めてひきつけられた。安元(あんげん)3(1177)年に起きた京都大火、治承4(1180)年の辻風(突風)、養和年間(1181~82)の大飢饉(ききん)、元暦(げんりゃく)2(1185)年7月の大地震である。
執筆時からは30年前後も前の出来事でありながら、日付や描写は驚くほど正確だ。長明の観察眼が確かだったということだろう。
東日本大震災の発生直後、多くの人が『方丈記』の世界との類似を指摘した。元暦地震の記述の中で長明は次のように書く。
「すべて世の中のありにくく、わが身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし」
地震に遭って、生命や住まいがいかに頼りないかよく分かったというのである。東日本大震災の被災地以外の人でも、共感できる思いではないだろうか。
とはいえ、長明は天変地異にただ怯(おび)えたり、震えたりしていただけではない。地位に恵まれない悩みを抱えながら和歌の研鑽(けんさん)を積み、歌集(鴨長明集)も編んだ。『方丈記』を書く前年の建暦元(1211)年には、友人に誘われて鎌倉まで出かけている。
歌好きの将軍・源実朝の歌学の師匠になろうとしたという見方もある。正史の『吾妻鏡』には同年10月13日、12年前に亡くなった源頼朝の月命日の法要に参列して、歌を詠んだことが記録されている。これはこれで、心弾む時間だったのではあるまいか。
◆「変わらぬもの」が大切
人々は不安なときほど、変わらぬもの、確かなものに心ひかれる。東北では去年7月、相馬野馬追が規模を縮小しても続けられた。今年1月には、岩手県奥州市・黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)も盛大に行われ、被災者を勇気付けた。
「日本三景」のひとつ、宮城県の松島が地震や津波に大きな被害を受けなかったのはうれしいし、岩手県平泉が世界遺産登録でにぎわっているのも何よりだ。東北は沈んでいない。
17年前、阪神淡路大震災の2カ月後に、奈良・東大寺二月堂の「お水取り(修二会(しゅにえ))」を見に行った。奈良時代から約1300年、一度も絶えることなく続く伝統行事である。燃え上がる松明(たいまつ)に、復興への勇気を与えられるのを感じた。
「京都は4年前、『源氏物語千年紀』だったんですが、『方丈記800年』も盛り上がっています。長明にならって、東北地方に元気を届けたい」
事務局を担当する東良勝文(ひがしら・まさふみ)・下鴨神社権禰宜(ごんねぎ)は意気込む。
関西では「お水取り(3月12日)が終われば春」といわれる。今年の冬は厳しかった。東北はなおさらだったろう。がれきの街に咲くサクラは、ひときわ美しいと信じたい。
(わたなべ ひろあき)