【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室
見渡せば春日の野辺に霞立ち
咲きにほへるは桜花かも
『万葉集』に出ている歌であるが、古来、春には桜が主役となり、歌や詩などに多く詠まれている。何か桜花という文字を見ただけで春という季節の喜びが迫ってくるのである。今年の冬はラニーニャ現象の影響による偏西風の蛇行などで厳寒となった。明日で大震災から1年。天から与えられる変動は誠に厳しいものである。自然とともにあらねばならぬ人間が、自然のありがたさを忘れすぎている。政治も経済も相変わらず低いところを飛行中である。低くとも無事飛行できればよいが先にはいろいろな障害物がある。
唐の時代、洞山良价(とうざんりょうかい)という曹洞宗の開祖がいた。この人は「三種滲漏(さんしゅじんろ)」と教示した。それはすなわち、人間は自分の思索・意見を得てして他の人に押し付けようとする。それも独りよがりで真の思索ではなく理論的に滲(にじ)み漏れるものがある。また情に棹(さお)させば、と言われるように、情は公平さを失う場合がある。使う言葉も真実でなく嘘であれば、それはどこか滲み漏れる。これらを戒めたのである。
そして『三路』の教え。まず「展手(てんしゅ)」。手を広げ温かく抱擁してあげる。言葉はいらずただ手で己の心を伝える。外国人が抱擁し合うときは、言葉なしに互いをいたわり合う。安心感を与えるのである。
次に「玄路(げんろ)」。玄は幽玄で人生は苦悩の路である。別に難しいことではなく、相手を困難や苦しみから救うだけの力はなくても、少しでも互いに支えになっていけばよい。
そして「鳥道(ちょうどう)」。鳥は自由に羽ばたいて飛んでいるが人間にはできるものではない。けれどもレールや歩道がなくても心の道がある。支えあって手をつなぎ合うことによって何かを得る道があるからそれを探すのである。こうした『三路』を見いだすことで人間は自然の尊さを思い感じるであろうという。
私の住んでいる京都は山紫水明の地と言われてきた。街の中央には鴨川やその支流の高瀬川などが流れ、南は開いて東北西にある山に囲まれた盆地だが、その盆地には緑が映え、静謐(せいひつ)な雰囲気をもっている。自然の中にすっぽりとはめ込められた中で、古くから伝承されている四季折々の行事が多い。
古代の奈良と同様に、地上のすべての山に精霊があり、川なら川の精霊があり、それが一つの信仰のようなものとなっていた。霊は単に「レイ」と呼ぶだけではなく血のつながりすなわち「チ」という。従って山霊はオロチ、川霊はカチなどといい、山の祭りや川の祭り、田の祭りを催し、自然に対する民の感謝の心をささげたのである。
日本人は島国である国の中で、自分だけがはみ出すわけにはいかない。いうならば群れの民族である。羊飼いが羊を巧みに誘導するその行動をみていると、あたかも自分がそのような中にいるように思われる。羊のことを思う巧みな羊飼いならどこまでも従っていけるが、なかなかこのような羊飼いは出てこない。羊を尊い財産と思い生きる力を与えるために、よりよき牧草のあるところへ導かねばならない。そうしたことを学ぶべきであろう。
(せん げんしつ)