葛城王、「橘諸兄」に改名。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】736年11月11日





■臣籍に降下し、政権へ道

 「源平藤橘(とうきつ)」は古代以来の名族の姓で、四姓(しせい)と呼ばれる。その一つ、橘氏は和銅元(708)年、元明(げんめい)天皇が藤原不比等の妻、県犬養(あがたのいぬかい)三千代(665~733年)に「長年の忠誠の功績」によって与えたことに始まる。

 三千代には前夫、美努(みぬ)王(敏達天皇の4世孫)との間に2男1女がいた。その長男が葛城(かずらき)王、のちの橘諸兄(もろえ)(684~757年)である。

 葛城王は三千代が亡くなった3年後の天平8(736)年11月11日、母の姓を名乗ることを聖武天皇に願い出て許された。あえて皇親を離れても、母の名声を継承したかったようだ。

 決断は当たった。光明皇后が同母妹だったこともあって、天皇は諸兄を頼りにした。しかも翌年、朝廷の実力者だった不比等の4人の息子が全員、流行中の天然痘にかかり亡くなった。諸兄は空席となった右大臣に昇進し、政権を掌握できたのである。

 彼が本拠としたのは、平城京北方の南山城地方である。京都府井手町には彼が建立した井手寺跡が残り、発掘調査で遺構が確認されつつある。

 さらに平成20年、その南にある木津川市木津から、文献にない「幻の寺院跡」(馬場南遺跡)が発見、注目された。奈良時代の歴史に詳しい渡辺晃宏・奈良文化財研究所史料研究室長は次のように話す。

 「正史の『続日本紀(しょくにほんぎ)』には天平12(740)年5月10日、聖武天皇が諸兄の相楽別業(さがらかのべつごう)(別荘)に行幸(ぎょうこう)して宴を催したと書かれています。相楽別業の場所はこれまで不明だった。私は馬場南遺跡こそふさわしいと思います」

 遺跡からは、万葉集に収められた和歌を墨書した木簡も出土した。貴族らが歌を詠み合う優雅な宴が繰り広げられたのだろうか。渡辺室長は「諸兄の死後、菩提(ぼだい)を弔うため別荘が寺にされたのでは」と想像する。

                                    (渡部裕明)