小西行長、肥後の領主に。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】1588年5月15日







商人から大名を射止めた男


 戦国乱世は、才覚と運で身分も乗り越えられる時代だった。百姓から天下人になった豊臣秀吉ほどではないが、小西行長(1558~1600年)もそんな一人である。堺の商人出身で秀吉に仕え大名にのし上がった。

 天正16(1588)年、秀吉は肥後国(熊本県)領主、佐々(さっさ)成政の失政を咎(とが)めて改易(かいえき)した。閏(うるう)5月15日、同国を二分し、行長と加藤清正とに与えた。肥後は大国で、行長の領国(南半国)でも約15万石あった。

 行長が抜擢(ばってき)されたのは、九州の他の大名の監視役とともに、「唐入(からい)り」(文禄・慶長の役)の先鋒(せんぽう)の働きを期待されてのことだった。実際に彼は天正20(1592)年4月、第1軍として兵7千を率い朝鮮に渡った。

 遠征軍は十分な備えがなかった朝鮮を平壌まで追い詰めた。しかし明(みん)が本格支援に乗り出すと、戦局は膠着(こうちゃく)した。行長は戦況を冷静に分析し、「明への進攻は難しい」と報告した。秀吉は明の武力制圧を事実上断念し、朝鮮南部の割譲へと戦略を変えた。

「行長を朝鮮出兵に反対した根っからの平和主義者とみる人がいますが、それは誤りです。彼はどこまでも秀吉に忠実な家臣だった。それだけに現場を知らない秀吉との板挟みになって、過大なストレスを感じていたことも間違いありません」

 『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像』の著者、鳥津亮二・八代市立博物館学芸員は言う。

 だが、行長の献身と活躍も秀吉の死とともに幕を閉じる。日本に引き揚げた彼を待っていたのは新たな実力者、徳川家康との対立だった。

 現実主義者とはいえ、豊臣家の下で躍進した行長に秀頼を裏切る選択肢はなかったのだろう。関ケ原合戦に敗れ「キリシタンゆえ自害はできぬ」と自ら出頭し、斬首された。


                                    (渡部裕明)