君父の讐は倶に天を戴かず。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【消えた偉人・物語】忠臣蔵と大石内蔵助。





我が国の代表的史劇と言えば、まずは「忠臣蔵」に指を屈する。事件直後から今日まで歌舞伎や講談などに演じられて空前のロングランを誇るが、元禄15年12月15日に主君の敵、吉良上野介を討ち取るまでの赤穂藩家老大石内蔵助の思想と行動は実に興味深い。

 そもそも、泰平の世が続く元禄期は武士と雖(いえど)も処世術に長(た)け、すっかり官僚化していた。そうした時代風潮のなかで起きた討ち入りだけに、当時の武士たちの論理では計り得ないほどの事件だったと言ってよい。

 第一、敵討ちはその殆(ほとん)どが親兄弟の無念を晴らすためであり、主君の敵を討つなどという事例はあり得なかった。そういう点で、まったく新しい思想的な事件でもあったのである。

 その証左を討ち入る際に掲げられた「浅野内匠頭家来口上」に窺(うかが)うことが出来る。事の経緯と主君の無念を思う心境を吐露した後、結びに注目すべき一文を書き付けていた。--「君父の讐(あだ)は倶(とも)に天を戴(いただ)かざるの儀、黙止し難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候」と。

 この文言は勿論(もちろん)内蔵助の指示によるものだが、最終確定を巡(めぐ)って一つのエピソードが伝えられている。

口上の原案を見た時、義士の一人、堀部安兵衛はこの箇所に疑念を抱いた。なにゆえか。それは典拠とした中国古典の『礼記』には「父の讐は与に共に天を戴かず」とあり、「君父」なる言葉はどこにも見当たらなかったからだ。

 そこで堀部は、かつての剣術の同門で儒者の細井広沢をひそかに訪ね、意見を求めた。細井はこの場合は必ずしも出典の文言にこだわる必要はないと回答。これを聞いて堀部は安堵(あんど)して帰って行ったという。

 以上のごとく『礼記』を拠り所としながらも、敢えて「父」を「君父」と言い換えることで、独自の行動哲学を創造したところに、筆者は内蔵助の真骨頂を見る者の一人である。

 かくて、元禄の世から消えたはずの忠義の心が敵討ちという形で甦(よみがえ)った。ここに庶民は武士たる者の本領を目の当たりにして感激に襲われる。これほどのロングランとなったゆえんはおそらくそこにある。


                        (中村学園大学教授 占部賢志)




草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員奮励努力セヨ。 

       大石内蔵助像。大石の思想と行動には後世の私たちをひきつけてやまないものがある